演劇ワークショップ2007年度後期
*註:稽古場内で「ファリファリ」の愛称で呼称されていた訓練法は、
2007年度より「Fメソッド」と正式命名いたしました。
2007年10月22日(月)
ワークショップグループA  N.WAKABAYASHI


今日は、見学希望者が一名参加の予定だったが、都合が出来て急遽欠席と いうことになった。演出家の林さんは、見学希望者には出来るだけ多数です る練習風景を見て欲しい、そういうことでは、少人数の今日でなくて良かった のかもしれない。それにしても、たった一回の練習で見学者には意思決定さ れるので、見学者を受け入れることは、身を削られる思いだと話していた。ワ ークショップの内容(F式訓練、Fメソッド)を、短時間で理解してもらう事は、な かなか難しいということだろう。


私は以前に、林さんが練習中に話す内容を、「林語録」として稽古場日誌に記 載した事があるが、聞く人が納得して忘れられない言葉として林さんの言葉が 記憶に残る理由は、演出家が、その場での出来事に触発されて感じたこと を、即興的に発言される「身体が語る言葉」だから、ではないかと私は思って いる。予め用意した言葉をよどみなく流暢に話すよりは、はるかに感動を残し てくれる。

練習も、台本のないその時勝負の緊張感が、土台にあるということだろうか。 まさに身が痩せ細る思いの練習時間なのだろう。声高に、高圧的に自信漫漫 に聞こえてくる言葉よりも、聞く人が、耳を擦り寄せて聞き取りたくなる話の方 が、長くその人に影響を与えることが、多々あるのではないかと思う。

2007年10月18日(木)
ワークショップグループC  T.NAKA
 

稽古の流れ
ストレッチ→F基本運動→F基本発語→Fサークル→Fエチュード

内容
ストレッチ
最近やり始めた基本運動前の身体のフリ(脱力しながら体をブラブラと左右に ゆらす)。これがとても気に入っている。ついつい身体に力が入る自分にはと ても良いストレッチだと思う。そこから入るF基本運動も心なしかいつもより力 の循環が良く感じる。このまま続けていきたい。

F基本発語
やはりついつい力みがちで固い。自分に必要なのは力よりも深さ。固さよりも 柔らかく抜くこと。イメージすれども及ばず、意識すれども届かず、いかに自分 の身体を理解(扱えて)いないか痛感。しかしそれで良い。ただただ繰り返す しかない。

良い意味で最近自分の焦りがなくなってきた。心の力みは取れてきた、それ が体に繋がれば…。

Fサークル
頭数が少ないためかおもうにまわらない。全体的に入り乱れがち。こういう時 にこそ入りより出のタイミングが問われる気がした。そして出のタイミングこそ 周りに対する意識が問われる。難しい…が楽しくもある。

Fエチュード
この後の考えとリンクするので省略。


考え
最近少しずつだが、自分を含めて周りのメンバー達が着実に"変化"をしてい るのを感じる。

今日のFエチュードで特に感じたのが学生時代から一緒に稽古している土田 君からだった。やはり付き合いが永い為に、他の人と比べると相手の動きの 癖やセンスが分かる分次に何をするかを予測してしまう。今までならそこに違 和感を感じることはないのだがその日は違った。彼が僕のイメージをことごと く裏切る形でFエチュードを展開させていく。近づいたり交差した時にも僕の知 っている彼のパーソナルスペースとは随分違うものを感じた。自分の頭の中 の彼と目の前の彼とは多分に違いがあり、目の前の彼はとても「不安定」にみ え、故に何をするか分からなく、彼自身も自分のバランス(コントロール?)を とるのにエネルギーを使っていたように見えた。


恐らく今彼の中で変化期にあって彼の中で新たな彼が再構築されているので はないだろうか?普段日常では感じなかった内面的変化をFメソッドを通して 感じた。

一期一会
林さんが良く仰る言葉の一つで良く耳にするが、体感したのはもしかしたら初 めてのことかもしれない。次に会うときにもまた裏切られるだろうか?

2007年10月17日
ワークショップグループA  原周

断想U−荒野にて 其の二

林さんのワークショップに参加していると、否応なく、自己に対峙させられる。 今、如何に日々を送っているか。あるいは、今までの道のりの歩みが、如何 なるものであったかが、白日の下(もと)に曝される。私のように人生の貴重な 時を放縦に過して来た身体/身心を持つ者には、もはや、満身創痍で臨むほ かない。

内側の筋肉を緊張させること、あるいはそれに点火すること。それは、同時に 閉じられている、ある心の一部分を覚醒させることが欠かせないことが分か る。

漫然と声を出している自分に気づく。林さんから檄が飛ぶが、精神を極北ま で、すぐに転位することが出来ない。自分の精神が浮遊してしまっている。声 を大きく張り上げることで、いくらか緊張が高まったかに見えるが、体は変わ っていない。単に声を大きくすることで誤魔化しているに過ぎない。

同じ動きを繰り返すうちに、ためらいがちな肉体も徐々にひらかれてくる。そし て、自分の意識を肉体の中心にまで下降させる。すると頭に残るのは無意識 だ。そして、自己の動きの先端を探す、想いをこらす。それが、どこであれ、今 までとは違った動きが生まれつつあるのを感じる(・・・・・・・・・・・・)。

その感じる瞬間を感じる(・・・)こと、そしてそれを捉えること、さらに完全にわ がものとすること――あまりにもはかない瞬間であるが、それを永遠のものと することも、出来るに違いない。

思考の栖(すみか)、意識と無意識の大きな川、感覚の空。まだ、はじまったば かりではあるが、おのが体の内側で起こることを静かに待ちたい。
   凛として言葉を発する時、私の体が弾かれた琵琶の弦のように、震え、 響く――
そんな時、自分が"いま"、"ここ"に"いる"ということを強く感じる。しかし、そん な瞬間は、そんなに多くは訪れない。

おそらく、生き方が問われている。日々の精神の置き処が問われている。夜 の空に煌めく星を見上げることさえ忘れてしまった。朝方、夜露に濡れて、朝 の光に反射する庭の草にも。

最後に、35歳で逝った子規が晩年、病床にて綴った書から一節引いておく。
「病やや間あり 杖にすがりて手のひらほどの小庭を徘徊す。日うららかに照 して鳥空を飛ぶ。心よきこといはん方なし。二、三本の小松は緑のびて凌雲 の勢をあらはし一尺ばかりの薔薇は莟(つぼみ)ふくれて一点の朱唇(しゅしん) を見る。秋草はわづかに芽を出していまだ萩(はぎ)とも桔梗(ききょう)とも知ら ぬにーもとの紫羅傘(いちはつ)は已(すで)に一輪の白花を開く。雨後土いまだ 乾かぬ処にささやかなる虫のうごめくはこれも命あればなるべし。」
正岡子規著『松羅玉液(しょうらぎょくえき)』明治二十九年より


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