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ワークショップ(シアターファクトリー)に入会して
断想T
2007年5月28日
ワークショップグループA 原 周
4月末の某日、TFへの入会前、WS見学(といっても主催者である林さんのす
すめで体験参加したのだが)の帰途、林さんが、「演劇の批評家や評論家達
は"完成された形"としての公演のみを観て、批評を書いている。その芝居が
どのように造られていったのかという"造りあげられいく過程"を見ようともしな
い。だから、それに対しての批評もない」というような意味のことを語っておら
れた。批評家とは、そうしたものかもしれないし、また、創造の現場に立ち会っ
て観察と思考の記録を文字にしていく根気のあろう者が批評家の中にいよう
とも思われない。また、あるいは、演劇集団から見れば、第三者である批評
家に未完成である形のままさらけ出すのは好まない、また、造られていく過程
は秘密事項に属する、といった事情もあるだろう。
林さんは、「演出家や脚本家が、俳優ひとりひとりに、動作や台詞回しまで支
配的に指定するような舞台は造りたくない、そういうものを壊したい」という。
俳優は俳優である前に、人間―――ヒト、即ち頭脳と肉体とを持った一生命
体である。そして精神が宿る。我々、俳優たらんと欲する者が、最小限の演出
家の指示のみで舞台を造ろうとするなら、我々俳優自身が我々の内にある小
宇宙(ミクロコスモス)を見る透徹した眼が必要である。
私が以前受けたあるワークショップの中で、こんなことを言われたのが印象に
残っている。
「形が大切なのではない。その人の内部で何が起きているかが問題なのだ」
例えば、こうした例だ。これは肉体的な例である。インストラクターが参加者全
員にあるポーズを取るよう指示する。一見全員が、指示された通りのポーズ
をしているように見える。しかし、ひとりひとり、細かく観察していくと、必ずしも
全員が、同じ筋肉を働かせてそのポーズを"造っている"のではないことが判
る。もちろん共通している部分もある。が、おのおのがそれぞれ違った部分の
筋肉を働かせていたことが判る。実は、インストラクターが指示していたのは、
一糸乱れぬポーズを取らせることではなかった。ひとりひとりが、おのおのの
肉体でそのポーズをとるために、ひとつの最も自然な過程を経て、その筋肉
を(筋肉だけだはないが)自然に働かすことにあった。
インストラクターの指示のあと、再度同じポーズを取るように指示される。しか
し、そこではもう一糸乱れぬ肉体の羅列は見られない。見られるのは、おのお
のの肉体がそのポーズをとるために、最も自然で無理のない、あるひとつの
過程を(このような言い方は好きではないが"正しい過程"とも言い換えられ
る)経て到達した"像"である。その過程を経るだけで、不思議なことに、そして
悦ばしいことだが、そのポーズに"精神"も宿ったように見えるのである。俳優
の身体―――あるいは肉体と精神に何が起こったのだろう?
私は冒頭、林さんが、批評家達が「上演された完成品は観るが、その造られ
ていくまでの過程は観ない」と語っていたと書いたが、この林さんの言う"過程
"と、私が今ここで書いて来た"過程"とは、問題にしている点は違うだけで、ひ
とが"ものを造る"という時、それらが造られる過程が大切なのだ、という認識
は一致しているように思える。世の中には、結果が全てだという意見がある。
特に数字で現され、それで勝敗が決まるような類のものは、動かし難い事実
として公認のものとなる。しかし結果とは何だろうか。過程が何か物事が生成
する一瞬一瞬の閃光、その積み重ねであるならば、結果はそのなれの果てで
あろうか。
否。"結果"すら"ひとつの過程"にしか過ぎなくなる。しかしそれは移ろいやす
い"過程"である。人がそれを"過程"と認識しないが故に移ろいやすいのであ
る。
だから"前段階としての過程"がなおさら重要な意味を持つのである。さらに、
"結果"も過程の一段階に過ぎないのなら、同様に重要な意味を帯びる。従っ
て"結果"ばかり見ても"過程"ばかり見ても、おそらく全体像はつかめないだ
ろう。
あいにく、我々人間の持つ時間は限られている。ある創造的な集団の中で、
実践者としてまたは、観察する者として、その創造する現場、或いは、一瞬一
瞬の作品の生まれつつある瞬間に身を置くこと、立ち会うことが出来れば、存
外の仕合せである。冒頭に戻るが、林さんは演劇作品のいわゆる劇評ではな
く、特にその作品がいかに造られていったか、稽古の中で俳優はどう変化して
いったのか、そういう過程をも記録する演劇雑誌を創りたいと話してくれた。そ
れは夢ではないと思う。そういう雑誌ができるなら、時間はないが演劇に真摯
に興味を持っている多くの人々と共有の場が出来るかも知れない。そして、直
接に演劇を志す者にとっては、仮借ない試練の場となるだろうし、原点をさま
よった際には緊急避難所ともなるだろう。
私も、その実現に一助となることが出来るだろうか。
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棚上げする自分
記録者:M.NAKAMURA
ファクトリー活動記録
活動形態:演劇ワークショップ グループA
活動日:2007年4月2日(月)夜
基本運動、F発語を久しぶりに時間をかけて実施。
時間通りに来られなかったことを、まず反省。やむを得ない場合もあるけれど
今日は自分の力で何とかできたはずで、それは自分の怠慢であり力不足で
あり。何より途中で入室するということは、少なからず集中している空気の邪
魔をしているということに思い至らない自分、というのが一番の問題だと思い
ました。申し訳ありません。
基本テキストを発語する時、集中しきれず周りの方の声に意識を取られる瞬
間がたまにあって、今回はいつも以上に自分の声を聴くことに意識を向ける
ようにした。そうすると前回までより少し違う声、間が出てきたように思った。
客観視する目は必要だけれど過剰な自意識は不要で、自分との対話に集中
すること。自分の課題はそこかなと思う。
林さんの話を聞いて印象的だったのは東條英機は脅迫されていたというくだ
り(*林註:日米開戦前の日米交渉中、好戦的な国民から「早く戦争しろ、腰
抜け東條」との手紙が彼の元に連日殺到していた)。最近のブログ炎上という
のも脅迫の一つの形だろうし、批判や抗議の電話が殺到するということも今ま
で様々な場面であっただろうし。話を聞いていて、腑に落ちたというか。ああ、
だから戦争へ突入していったのかと。熱狂している空気は今までもあったし、
これからもきっと、ある。その時自分はどうするのか。
思い出したのは、イラクで人質となって殺害された男性の事件。ニュースでは
イラクに行った男性への批判ばかりが駆け巡り、ご両親は息子を助けてくださ
いと言うことも許されなかった。それは世間というものが、24歳の彼を見殺し
にしたとも言えて。24年で時が止まったままの彼と、助けてくださいという言葉
を呑み込まざるを得なかった家族と、見殺しにした世間と。生まれた場所が違
えば、教室で机を並べてたかもしれない、同級生だったかもしれない、彼と同
い年の私。なぜ助ける手立てを模索しないのだろう、批判は後回しにしないの
だろう、助かってほしいと思わないの?なぜ仕方がないの?そう思ったことを
思い出したけれど。でも私は何もしなかった。結局は棚上げした私。批判だけ
は一人前の、何も変わっていない私。あれからもう3年が経った。
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グループBのWSスタート初日
記録者:Y.NOBE
ファクトリー活動記録
活動形態:演劇ワークショップ グループB
活動日:2007年4月4日(水)夜
今日からグループBワークショップ開講
基本身体運動、循環運動、F基礎T(気の交流)、F基礎U
まずは林さんのお話。9月にワークショップで合宿(藤野合宿)を予定してい
て、Bグループは戯曲『糸地獄』を元に林さんも参加して発表、ということを考
えていると。これは是非参加したい。
30分ぐらいから身体を動かしはじめ、背中の斜めの筋肉を意識してほぐしま
した。右肩甲骨のあたりが慢性的にこっているので頑張って伸ばしてみたした
が…近いうちに整体にいこうと思いました。生まれてこのかた一度も行ったこ
とがないんですが絶対歪んでるので……。
収縮運動から循環運動、たっぷりほぐして汗をかいたところで休憩。時々バラ
ンスを崩してしまうので、きっと足腰への意識が足りないんだと思います。もっ
としっかり意識してやっていこうと思います。
休憩後はちょっと声出ししてからF基礎U(「素晴らしいわ」「恐いわ」「どうした
のさ」「壊れちまいそう」)。流れを意識するのは簡単なようで難しい。でも楽しく
て好きです。ついつい全身に力がはいってしまいますが、それじゃいけないん
ですね。上半身は楽に、上半身は楽に……。
第一回は以上で終わってしまいました。2時間ってすごく短いです。
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ああゆうのが「言霊」っていうのかなぁ
記録者:Y.NOBE
ファクトリー活動記録
活動形態:テラ+WS合同ワークショップ兼「体験ワークショップ」
活動日:2007年4月5日(木)夜
基本運動ふぁりふぁり、F基礎Tと交叉型
F基礎UからF即興
今回は友人が「体験参加」するので付き添いで参加しました。見学だけでも、
と思っていたのですが結局参加させていただいて一緒に勉強しました。
筋肉の収縮からエネルギーの循環までは林さんの説明を聞きながら基本か
ら。ほぐれてきたところで二人一組でF基礎T。相手の動きを受けて動く……
どうしても頭で考えすぎてしまうのか逆に動けず、交叉型のほうが個人的に好
きでした。どちらも難しいことに変わりはないのですが……。
休憩はさんでF基礎U。何グループも一気にやるとどんなに集中していても小
さな声がまわりの声に消されてしまう。うっかり他グループの声を聞いてしまっ
たりするのは集中が足りない証拠か……。
F即興。見るのはニ度目。前回(3月8日「公開WS」)も今回も、ただただ唖然
呆然で見ている間は本当に何も考えられなくなってしまう。モノローグが何か
の呪文みたいに、声に言葉に力があって、ああゆうのが「言霊」っていうのか
なぁなんて的外れなことを終わってからぼんやり思ったりしました。
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緊張と弛緩のさじ加減
記録者:K.YABE
ファクトリー活動記録
活動形態:演劇ワークショップ グループA
活動日:2007年4月9日(月)夜
見学者三名(Iさん、Oさん、Iさん)、一緒に基本を実技。
基本身体運動、循環運動、F基礎T(気の交流)、交叉型。
F基本発語(全員)→(単独発語に対する)受動、受容。
今日は身体のほぐしなどを丁寧にやって、新たに発見したことがあった。今ま
でのほぐしは身体が緊張していた。身体をほぐしているにも関わらず、背中や
肩、首の緊張がとれず、声を出す時や身体を動かす時に動きづらいと感じて
いた。膝や腰の落とし具合で身体がほぐれる体勢をとる。今までは膝や腰が
固まっていた。余計に腰に負担がかかっていた。
体重を左右に移動させるのも背中をほぐすことに頭が一杯になってしまって、
腰から下は全く意識せず、縛られたように固まっていた。今日はそういう自分
に気付いた。今回は背中を柔らかくするために膝や腰を使ってみた。そうする
と、身体が今までどれだけ緊張しながらほぐしていたかわかった。
確かに膝や腰を使うことによって身体が楽になるのだが、ずっと同じような感
じで運動していると、今度はその動きによってまた身体が緊張してきた。身体
全部の緊張をとろうとすると、立っているという動作が出来なくなってしまう。か
といって緊張し過ぎても身体が楽にならない。緊張と弛緩のさじ加減が難しい
とワークショップに一年通って気付いた。
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見られること
記録者:K.YABE
ファクトリー活動記録
活動形態:演劇ワークショップ グループC
活動日:2007年5月17日(月)夜
基本身体運動、循環運動、Fコア発語。F基本発語(全員)→(単独発語に対
する)受動、受容
話:F系訓練=「語り系」発語・・・リズム(身体、他者性)がベース。
空間構成+単語
久し振りのワークショップで基礎発声をやった。休んでしまっていたせいか、細
い所がおろそかになってくる。頭では認識しているつもりが体に活かされな
い。頭と体がバラバラで自分の体なのに自由が利かなくて気持ち悪かった。
お題をつけた「空間構成」をやったが(*2,3人がスペースに入ったところで、
その展開を連想的にイメージした単語を林が発する)、途中から言葉がまるっ
きり耳に入らなくなっていた。言葉を聞いて考えようとすると止まってしまって
止まることに依存してしまいそうだったからかもしれない。
慣れてないことをやろうとすると日常の動きに頼ってしまう。日常と、人に見せ
るための日常の動作というのは必ず境界があるように思う。あまりにも日常を
意識し過ぎると見ていられない動作になる。
見られるということを意識するだけで非日常になる。そこの不可思議を楽しみ
たいと思う。
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意識から無意識へ
記録者:T.K.
ファクトリー活動記録
活動形態:演劇ワークショップ グループC
活動日:2007年5月24日(木)夜
人の心のに中には大きな「無意識」が存在する。それは意識による抑圧、調
整をうけている。しかし、ある瞬間に意識下に無いところから思わぬ衝動が生
じる。それは、過去の記憶であり、無意識の中に長年蓄積された「知識」から
来るものである。
その「無意識からの衝動」がそのまま「芸術活動」へとつながる。これは一種
の病であり、心の中に存在する「無意識」とは、全ての人が持つ、「心の病」の
ようなものであり、常に意識と無意識がバランスを取り合う事によって、「正
常」に保たれるものである。
それゆえに、芸術活動において、その衝動が多すぎるタイプと、意識による抑
圧が強すぎるタイプがある。また、衝動を生むために、意識的に「仕掛けて」
行く事が必要である。その仕掛けが役者にとっては発声が一番効果的であ
る。長い呼吸である息をつめていく事により、役者の身体は、無意識的衝動
を生じやすい身体となる。この状態を意識的に造っていくのが、F発語であり、
それは日々の鍛錬によって可能となる「技術」である。
意識と無意識。
無意識を意識する。
表現活動にて、また心理学的現代において、より「豊か」な人として今一番注
目すべき点であると思う。
それが混沌を極める、演劇界、延いては現代社会を「美しい国」へ導くのかも
しれない。
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身体訓練の場として
記録者:S.KAWAI
ファクトリー活動記録
活動形態:演劇ワークショップ グループA
活動日:2007年7月2日(月)夜
ファリファリ(F基本運動)
下半身は大地をしっかりとつかみ、上半身はできるだけ脱力し柔らかくする。
丹田を意識しながら体に垂直に棒が立っているのをイメージしながら腰を回
転させる。手は体にまきつく海草のようなイメージを私はもって行っている。
回転は体のブレを調整することも、もちろんだが、呼吸を合わせることが大切
だと思う。むしろ、呼吸に体がついていくイメージだ。
そしてファリファリは自分の中のエネルギーを外のエネルギーと交流させなが
ら、自分の周りにエネルギーの風を取りこむ作業のようだ。その周りに集まっ
たエネルギーをスローで体のすみずみまで、細胞の一つ一つまで掌握し、凝
縮させていく。流れていたエネルギーを内燃させていくようだ。
そして脱力で一気に貯まったものを抜き、またファリファリに入る。その活動を
繰り返していくことで、エネルギーを取りこみやすい体になっていくように感じ
る。
F式発語訓練
「サロメ」は何度も暗誦を続けることで、言葉のもつイメージを捨てていく。
普段使っている言葉には、固定観念をもってしまっている。
それを音に戻していく。
繰り返していくうちに、言葉に対する新しい出会いがある。
ただ、その中でもリズムを変化させられなかったり、一定の言葉を強調してし
まったりするのが課題だ。
対照的に『勧進帳』は、息を詰める箇所や、音のリズムが決まっている。
「勧進帳」では、日常とは違う言い回しに言葉との出会いがあった。
Fサークル
自分の体に貯えておいたエネルギーをぶつけ合い、高め合う。流れを壊して
しまうとエネルギーは下がってしまう。そのタイミングを見計らい、自分を客観
的にとらえながら、そして全力でぶつかっていくことを同時に行うことがまだで
きていない。場を見過ぎてしまうと、体が固まっていくのを感じる。また、違うタ
イミングで飛びこむと場のエネルギーが変わっていくのを感じる。
頭の中をシャープにする訓練であり、相手を受けながら、自分がその場にどう
関わるか。常に頭と身体が研ぎ澄まされる。
意識と無意識には密接な関係があると林さんは言う。無意識になるには自分
の身体を信じられるようにならねばならない。課題は山積みである。
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「自由」になるために
記録者:T.NAKA
ファクトリー活動記録
活動形態:演劇ワークショップ グループA
活動日:2007年8月30日(木)夜
・内容、大まかな流れ
藤野合宿のビデオを鑑賞、その後基礎発声、基礎運動。
最後にFサークル。
[WSについて]
舞台後(外部出演)の「もやもや」の影響か、いつもよりぎこちない感じを覚え
た。いつもと違う意識、違う身体。長いこと間をあけていたこともあってか「慣
れ」が消えていたため、「不自由」さを感じたが、同時に「不自由」さがいつもよ
り自分を集中させてくれた。
タイミング、呼吸、強弱、そこにいる人に対する意識。しかしながら「慣れ」てい
ない為にどうしても上手く行かない!
また「慣れ」も必要なのだと当たり前のことを痛感…。
修行不足!
[最近の考え]
役者は「不自由」であるべきではないか?最近の芝居、また、自らを反省して
良くそう考えるようになった。舞台上で何者にも捕らわれずに自由に動く役者
をよく見る。勿論自由であることは良いことだと思う。…が、なかには
‐何者にも捕らわれない役者‐
ではなく、
‐何も捕らえていない役者‐
というものを多く観た気がします。恐らくは自分もその中の一人だと、芝居を
終える度に猛省。
表現の上で「芯」を捕らえる以上、役者は同時に捕らわれ「不自由」な状態に
なるのが正しいのではないだろうか?そしてそこから真の意味で「自由」にな
るために稽古を重ねる。「慣れ」と「不自由」さを同居させた状態。捕らえ、捕ら
われる関係。
表現者としてそこに迄至るには、膨大な知識、経験が必要なのだと何となしに
感じている。
沢山、本を読もうと思う今日この頃。読者の秋。
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内と外のせめぎ合いの中から生まれいずるもの
記録者:T.SAKAI
ファクトリー活動記録
活動形態:演劇ワークショップ グループA
活動日:2007年9月10日(月)夜
早い展開の流れだった。Fコアを2巡(6人)した後、即座にFエチュードに移行
する。「サロメ」テクストを用いて導入するも、早い段階から他のテクストを盛り
込んでいくことになった。1人のモノローグが続いた後に、フロアーに展開する
メンバーの移動の中、身体が交差する際、いつしか私と桑原さん、若林さん
の3人で「すばらしいわ」「こわいわ」「どうしたのさ」「こわれっちまいそう」(*
註:四句による反復)が始まっていた。
F基礎Uの時は4人、今までのエチュードでも2人で行うことはあったが、自分
の語る部分は原則変わることはない。けれども、今回は3人だったため、一行
ずつ「すばらしいわ」「こわいわ」「どうしたのさ」「こわれちまいそう」の語る部分
がずれていき、そのため新鮮な感覚を味わいながら続けていた。
テンションが上がり「どうしたのさ!」と序破急でいうところの破が訪れた絶妙
の瞬間、林さんが飛び込んできた。「おいおまえ、どうかしたのか」(*註」別役
実『正午の伝説』の導入部)と私に語りかける。予想だにせぬ展開に私はあ
わてた。一所懸命に、その続きの別役テクストを思い返そうとしていた。おぼ
ろげな言葉をたぐる私に向い、林さんは再度「おいおまえ、どうかしたのか」と
揺さぶりをかけてくる。挑んできたその場に私は対応できず、相変わらずおど
おどしていた。案の定、Fエチュード後に「単に台詞として思い出そうとしていた
だけだ」と指摘を受けた。自分の心の内が見透かされていた。きっと、エチュ
ードの外の人間にもはっきりと映ったのだろう。
あの時、自分の中では「内」に入りすぎていて周りが見えなくなっていた、とい
うよりも急な事態に対処できずに、別役テクストを続けることでその場を過ご
そう、いやかわそうとしていた。それはリアルさを欠いた、それまでの流れから
は、すこっと落ちてしまったシーンになった。一期一会の即興、Fエチュードで
はやってはいけない場面。林さんのコメントの中で「交通事故で家族を失った
人に対し、考えもなしにうかつな発言はしないよう考えをはたかせるでしょう。
それだけ、繊細にやってほしい!!」との言葉が突き刺さる。何もFメソッドは
リアルさを求めているわけではないが、<今、ここで起こっている出来事>へ
の意識がとんでいた。固くなって柔軟な思考が出来ず、別役テクストというあ
るものに、頼ろうとしていたのだ。それは、今起こっている出来事から突然浮
いて行為。まるで、現在進行形の話をしているのに、突然、過去の話がもどさ
れるかのような・・・。
そうではなく、Fメソッドは、今生まれているものに瞬間瞬間、空間も時間も自
分の中で構成して、どうかかわっていくのが問われる場だ。「おいおまえ、どう
かしたのか」に対し、例えテクストを離れてもかまわない、対応が求められて
いた。身体の中からわき起こるものと外から受ける刺激の中で、内と外とが
自分の中でせめぎ合いながら、うまれいずるものに繊細でありたいと自分に
願った。
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