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FメソッドのF−自由性、自在性へ
ファクトリー活動記録
活動形態:演劇ワークショップ グループC
活動日:2007年2月5日(木) 夜
記録者:T.KISHI
ここ最近のワークショップでは、Fメソッドを実技と平行して理論から紐解いて
の解説をして頂いている。
「脱力とは緊張」
筋肉とは縮む事で働き、伸ばす事は出来ない。縮むという事は対をなすもう
一方が「伸びる」という事。猫背になるのは腹筋が背筋に勝る状態で、言わば
「バランス」が崩れた状態である。それを解消するには背筋を鍛える。と言っ
てもトレーニングでは無く、上体を反るだけでも十分である。前進が基本なの
で前傾となりがちな身体を反る事で解消する。日常、腹筋が縮み緊張状態で
あると同時に背筋は伸びた「脱力」状態である。この原理が基本と考えられ
る。
「前後から上下へ」
この緊張と脱力の関係を前後(腹背)では無く、「上下(上半身、下半身)」へと
変換する。これによって下半身がしっかり地面をとらえ、上半身は限りなく脱
力状態にする事が可能となる。ここから「ファリファリ」基本運動へと繋がる。
「ストレッチ」
身体をほぐす際、「骨盤」が重要である。骨盤のまわりには多くの筋繊維があ
り、それらの働きによって「歩行」という行為が可能となる。ゆっくり歩くという
事は骨盤の筋肉に相当な負荷がかかる。それだけで鍛えられる。すなわち、
それだけ複雑な筋肉を要する。まさしく「有機体」。
身体をほぐすには普段使われない、背中側を中心にする。首、肩甲骨、背
中、背骨、肋骨の一本一本を動かしながらほぐす。個人個人必要なモノは違
うので、必要に応じたストレッチを行う事が大事である。また筋繊維の位置、
つきかたを意識することが重要である。筋肉は非常に複雑で骨盤からナナメ
に伸びる筋肉や背中を真っ直ぐはしる筋肉など色々な筋肉が組合さり、形成
している。基本的にはナナメのラインを意識しながら伸縮、回転等でほぐす。
あくまで「ファリファリ」基本運動と動かす事を念頭におくことが重要であると思
う。
「FREE『自由』とは?」
制限の無いモノを一般に自由と称するが、果たしてそうであろうか?自由だか
らと言って何をしてもいいわけではない。自分自身で制限をつくらなければな
らないし、また膨大な可能性の中から選択をしなくてはならない。さらに「既構
築空間」において自由とは「選択の自由」であって、その流れの中で、「どれを
使うか?」また、「どこで使うか?」の選択である。しかし、ここしかない、これし
かない、という瞬間が存在する。その瞬間を的確にとらえる事ができて初めて
「選択」ができるようになるのである。
自由空間=Fエチュードとは非常に高度な技術がないと成立しえない繊細な
芸術であるのかもしれない。
そのため、技術の無い者にとって自由とは限りなく「不自由」で、技術に長け
た者はどこまでも「自由」になれる。
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他者による自己解放
ファクトリー活動記録
活動形態:演劇ワークショップ グループC
活動日:2007年3月15日(木) 夜
記録者:T.KISHI
単独で行為をするのは自分と向き合い、自分自身の身体と会話しそこから派
生する〈衝動〉に任せ動かされ、時に思考により動かしながら行為していく。
しかし、相手(他者)がいるという違和感はその行為空間に侵入し、影響を与え
てくる。自分が予想もしない方向へ向いて行く場合もある。また自分の行おう
とした行動を抑圧される場合もある。その時身体は他者という影響を受け、自
分の思いも及ばぬ信号を送ってくる。抑圧や制限がある中、自分の中の〈未
知なる私〉は解放されてくるようだ。それは時間により刻々と変化していくよう
に感じた(おそらくお互いの集中の度合いかと思う)。
同調の状態から一つ何かを超えた領域。同じ空間、時間の中にいて、お互い
が相手を認識しているが、意識は限りなく〈私〉に向いている状態。しかしこれ
は相手との同調の先にあるもので、決して「単独」ではない。
存在そのものがお互いに影響しあい、身体は思わぬ行為を始める。それを支
えているのはまぎれもなく、他者という違和感であると感じた。他者という違和
感により〈未知なる私〉を垣間見る。そこから表現がスタートして行くのだろ
う。
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日常から非日常の私へ
ファクトリー活動記録
活動形態:演劇ワークショップ グループC
活動日:2007年3月15日(木) 夜
記録者:T.SATOH
日常的な集団生活において「個=私(以下〈私〉とする」は邪魔なものでしかな
く、不便である。だからこそ国家や企業の上に立つ人間は、自己の所属する
集団を組織化し、最も効率的で利潤があると思われる方法で統制をとるのだ
ろう。
それらは集団生活をおくる上では必要な事柄であるだろうが、画一的で面白
味はない。
また、そのような統制下では〈私〉は存在しないし、定義もされない。それ故
〈私〉というものは曖昧で、よく解らないものとして捉えられる事が多いのでは
ないだろうか。
自己ではない他人と出会い、WSという非日常的な空間の中で朧気ながら
〈私〉が浮かびあがる…今日のFメソッド基礎1でそんな体験をした。
〈私〉の器である不器用な身体で、何かを表現する姿は滑稽である。(どうしよ
うもないとも言う。)だが、そんな言葉では表現出来ないような動きを見せる時
があり、また、あくまで自然なのだ。そして、身体の奥底から何か解らない何
かが熱を帯びていくような感覚がしてくる。
その瞬間が私の知らない〈私〉と交信している状態ではないだろうか。
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自分の衝動に気付く契機としての他者
ファクトリー活動記録
活動形態:演劇ワークショップ グループC
活動日:2007年3月15日(木) 夜
記録者:M.TSUCHIDA
F基礎T、今回は自分の中から出て来る衝動を意識する事を念頭に置きまし
た。今日は久しぶりのWSということもあり、普段よりも動きたい衝動にかられ
ていました。
目の前に他人がいる事で、自分が今何をしたいのか、どう動きたいのかが明
確になってくる。相手を通しての自分との会話。自分の衝動に耳を傾けてみ
る。問いかけてみる。自分の身体が動きたいままに動いていると、実は、自分
の衝動に気付きにくいのでは。相手からの抵抗があった時に初めて、自分の
衝動に気付く。
相手がいなければ僕の衝動は出て行くばかりでいつかは底をつく。自分が動
こうとした時に相手の抵抗があり、その抵抗があるから新しい衝動が生まれ
てくる。
今回、動きたい気持ちがはやり過ぎて瞬発で動いてしまった事が多かったの
は反省です。
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自由への衝動が生まれる時
林 英樹
そうですね、F基礎Tで相手と組んだ時に、見ていて、必要性、必然性なく動
いているところが結構ありましたね。その動きの根拠が見えずらい感じ、とい
う。つまりは安易に動きに走る、動きやすい動きの場所に行ってしまう、そうい
う感じがしました。
「自分の身体が動きたいままに動いていると、実は自分の衝動に気付きにく
い」、これは〈自由〉あるいは〈自由性〉というものをめざす場合の落とし穴だと
思います。言葉ではまだ十分語りづらいのですが、自由を奪われた時に〈自
由への衝動〉が生まれる、それが何かを動かす・・・という二重構造を取るの
かな、表現行為における〈自由〉ってのは。
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新たな関係性
ファクトリー活動記録
活動形態:演劇ワークショップ グループC
活動日:2007年3月15日(木) 夜
記録者:K.YABE
相手を気にするということは私が私を無視していたということか?身体の自由
を封じてしまっている。いや、身体を機能させる時点で制約が発生する。自由
と制約は表裏一体だ。今日やったこともそうだ。お互いが相手を気にせず自
由に動いてしまったらその行為の意味を持たず、関係が成り立たないだろう。
私の中を見ながらF基礎1に取組んでみたが、相手がいることによって相手の
意思という制約ができる。私の自由と相手の制約によって身体が考えていな
かった動きをした。
いつも考えて躊躇してしまって止まってしまったり、どう動いたらいいのか考え
過ぎて、今やっていることから離れてしまうことがあった。考えている余裕が無
くなった時、私の意識の制約‥?が無くなった時、身体の反応を素直に受け
入れ、身体が勝手に動く。その時は意識を無くした私。身体の自由化、今を
生きる身体。
身体から距離感や皮膚感覚を味わう。そこから身体がどう動きたいのか?下
から湧き上がるものがある。これは何なのだろうか?何故こうなってしまうの
か?身体に任せてばかりだと面白くない。意思を入れてみる。また新たな関
係性が生まれる。これが自分の気持ちいい動きにたどり着くと面白い。
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身体の古層
林 英樹
「意識を無くした私」ではなく、もう少し輪郭の大きな意識の中で戯れている
私、のような感じでもあるのではないでしょうか。一種の感覚ですから濃淡は
ありますが。。。意識はあるのだけれど、日常の中での〈私〉と〈私の身体〉の
関係性では計れない、認識できない少し深い層、〈身体の古層〉にある、眠る
感覚が召喚される。そういう時の感じ。
「身体が勝手に動く」状態、しかしここで意識は消滅したり、曖昧になっている
のではなく、むしろ明晰になっているのだと思います。明晰だから〈私の身体〉
から自由になっている。意識が自由になっているから、身体は普段の不自由
な意識状態では枠をはめられ身動き取れないのだけど、この時に初めて自
律的に動き出す。
経験がないので推測ですけれど、飛び込み自殺する時とか、一瞬、そういう感
覚ってあるんじゃないかな。いつもF基礎2で使用しているフレーズのもとにな
る戯曲『やよいの空は』に戦時中、南の島の崖に追い詰められ投身自決する
少女の記憶体験が語られるシーンがあるけれど、青い空の発見や波の音、
潮の満ち干きの感触の再発見、つまり自然を身体の中に感じ、あるいは自分
も自然の一部に溶け込んでいる、という感覚、非日常感覚、特殊体験、では
あると思いますが、舞台やワークショップという虚構空間だからこそ、体験可
能な感触であり、身体感覚であるのだと思います。
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ワクワク感、ここちよさの発見
ファクトリー活動記録
活動形態:演劇ワークショップ グループA
活動日:2007年3月15日(木) 夜
記録者:K.IGARASHI
F基礎T
不思議な体験でした。
もしかしたらこの〈空間〉に〈支配〉されているのか…?と思ってしまうくらいに
……
自分が思っていないのに勝手に身体が動いている。いや、動かされているの
か…?自然界で言えば「風」と言ってもいいくらいに。。。
自然と二人の空間になっていく中で、個人の感覚ではなく《身体》の感覚で動
いている感じ……細胞というか筋肉というか。。そして相手の予想外の動きに
反応しきれず、その場で戸惑ってしまった身体。その身体を反応させ、また二
人の空間にしていく…。
うまく言えないけれど…これは今までの自分の中での新しい発見と感覚。その
空間の中で、自分の身体の奥では心地よい感じとワクワク感がありました。
今考えても不思議なくらいに。。
私はさらにそのワクワクを感じ、心地よさを拡げていきたい。
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その時
林英樹
「戸惑ってしまった身体」を前にして、その後、自分(私の意思、私の身体の双
方、あるいはそのいずれか)の中で、どういうことが起きていたのでしょう
か?
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「戸惑ってしまった身体」について。。。
K.IGARASHI
戸惑ってしまった瞬間、私は自分の意思とは関係なく素に戻ってしまいまし
た。何と言えばいいのでしょう…自分の中では〈感覚〉という言葉が一番しっく
り来るのですが。。
瞬間の出来事でしたが、身体の動きが止まってしまったと同時に感覚までが
止まってしまったのです。多分その時「反応しなきゃ」と身体が思ったのだと思
います。再び意識を集中させ、徐々に二人の空間に戻していったのですが…
やはりワークショップ後、その〈戸惑ってしまった〉事に多少の不安が残ってい
ました。
しかし19日のワークショップで、林さんが仰った、
「戸惑うという事は良いことだ」
との言葉で、私の中の不安がスッと消えました。
また新鮮な気持ちでいろいろと発見していきたいです。
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≪何とかしよう≫とする心の働き1
林 英樹
「スムーズに事が流れる」と、意識は再び非覚醒状態になることがあります。
眠ってしまうというか。自分ではない他者(自分の意志に関係なくそこにある存
在、自分の意志の「外部」)が介入してくることで、違和は生じます。それを的
確に対処し処理する能力が如何に高まっても、いやむしろその能力が高くな
れば高くなるほど、注意したほうがいいのだと思います。つまり技術が高くな
ればなるほど、喪われるものがある。技術や経験が豊富になるとは「オートマ
チック」に処理できるパフォーマンス能力が向上した、ということでもあるから
です。
この初心に近い初期訓練状態で遭遇する感覚、「対処がスムーズに行かな
い」ことで起きる混乱、その混乱の中で必死に≪何とかしよう≫とする心の働
き、結果的に上手く対処できないとしても、この≪何とかしよう≫という必死の
意志の働き、戸惑いをきっかけに生じる何らかの心的な状態の鋭く激しい<
生成変化>の場に立ち会っている感覚、それは訓練をすればするほど、ある
程度のことがこなせるようになればなるほど、薄らぎやすく、だからこそ価値を
帯びてくるものです。忘れてはならないものです。その時、≪戸惑うということ
は良いことだ≫という逆説が成り立つのだと思います。
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≪何とかしよう≫とする心の働き 2
林 英樹
だから後々にとっても、この「戸惑い」は原点として、初心として深く刻印されて
おくべきものです。経験に意味があるとするなら、殆どその一点においてでは
ないか、と言っても言い過ぎではないかもしれません。上手くなる、上達する、
ということは何かを失うことです。近代演劇(新劇、やそれと殆ど意識の差異
のない現在の小劇場系。つまりかつて近代劇の演技がテレビ演技を形成し、
テレビ演技が、現在の若者、小劇場系の演技を形成している、という循環の
中では)では、そのことを勘違いしている。
訓練を続けて、「ものの上手になる」ことは何かを忘れてゆくことです。その
時、「戸惑う」というこの初心が、価値の生成に関わる。表現がある価値を帯
びるとするなら、それが内在させる確かな実体があるから、という風に単純に
は言い切れません。あらゆる「価値」は、つまり「意味」はそれが<交換>され
る中で発生するのです。その<交換>が、フレキシブル(F)に、固定化されず
に生き生きとなされた時、つまり何かが生成変化、あるいは発生する瞬間(価
値、あるいは意味を<物語>と置き換えても構いません)に立ち会えた時、そ
こに立ち会った者にとっても(たとえば「観客」)、それは貴重な意味を生のレ
ベルで体験しうる可能性に拓かれた場、として受容されるのだと思います。
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子供のように遊ぶ<私>
ファクトリー活動記録
活動形態:演劇ワークショップ グループC
活動日:2007年3月19日(月) 夜
記録者:T.KISHI(21)
F基礎T、F基礎U、FU応用
受動と能動が入り乱れた空間。「主」と「従」の存在しない空間。そこには「他
者(相手など)」からなんらかの影響を受けて行為に及ぶ「自己の身体」のみが
存在する。いや、それさえも不確かであるほどの「無形空間」だ。意識の中に
意識は無く、身体の中には「液体」が満ちて、ゆっくりと流れているようだ。や
がてその液体が他の存在する空間へと溶け込んで行く。そして自分、相手、
空間、時間…二人の間にあるたった一間たらずの「空間」に全てが溶解し、濃
密な<場>へと変化する。そこで私は<私>と出会うのだ。そこで「違和感
(相手)」の存在の大きさを知る。
去年と今と、何かが変わった。何かはわからないが、確かに変わった。ただ
分かるのは、「溶けきった空間」の中で子供のように遊ぶ<私>がいる事だ。
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身体からの<声>を聴く
ファクトリー活動記録
活動形態:演劇ワークショップ グループA
活動日:2007年3月19日(月) 夜
記録者:M.TSUCHIDA
F基礎T、F基礎U、FU応用
前回のWSでは、気持ち、意識が先走って、身体から遠くなっていました。
今日のWSでは、今痛めている腰、膝に優しくしようとした事で、いつも以上に
身体に対して意識が敏感になり、身体からの<声>(今回は痛さに対する)を
聴く事が出来ました。
それに伴って、意識と身体の関係性も変わってきました。以前は、例えば身
体から発せられる衝動なり訴えを聴きはするけども、ただ乱暴に、一方的に
捕まえて、発語や動作に繋げていたように思います。が、今日のWSでは、同
じように衝動なり訴えは聴きますが、そこにプラスして「聴き返す」という作業
が増えました。
例えば、衝動を抱えた身体に対して、
「今、そう動くと腰に良くないけどどうする?」
「わかってる、でもそうしたいから、無理じゃない程度に出来ないかな?」
「わかった、それじゃ無理はするなよ」
と、いったような対話が身体と意識の間で展開されていました。お互いがお互
いに気を使いあう事が出来、だからこそ、「受動」と「能動」の入れ替わりも以
前のように無理やり、力技で入れ替わるような事もなく、前よりスムーズに、意
識と身体が互いに納得した上で替われたように思います。
今は互いに調和のみの交流ですが、「喧嘩」したり、片方がもう片方を支えて
みたり、色々な交流も出来ると思うので、頭の片隅に置いていこうと思いま
す。
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