演劇ワークショップ2006年度前期−2
*註:稽古場内で「ファリファリ」の愛称で呼称されていた訓練法は、
2007年度より「Fメソッド」と正式命名いたしました。
ファクトリー活動記録      
活動形態:演劇ワークショップ グループC
活動日:2006年10月19日(木)夜
記録者:Y.NISHI


本日のワークショップではFコアやF基礎Uの後に、先々週のお題を元にした エチュード(身体表現)を行った。今週は自分も発表だった。

私に出されたお題は「夢ののこぎり」というなんとも得体の知れないものだ。お 題を出された日からずっとアプローチ方法を色々と考えては見たが、実際に 表現として見せられるものにはなっていなかったと思う。モノプレイの創作発 表を考えている気分だった。

やってみた後に感想を聞いたり、質問されたりして、本日を含むここ数回のワ ークショップでの林さんの話にもあった、やる側と見る側の違いを実際に体 感・理解した。こちらの意図がどれほど伝わるかはこちらの力量次第だが、 「芝居」というものはなるほど確かに、あらかじめお客の期待という形である程 度お客が作り出しているものなのだと。例えば、本日拙い自分の発表に対し て、終わってから「森のイメージでしたか?」と質問された。私自身は森のイメ ージは全く考えていなかったので、ふいの質問だったこともあり、私はいいえと 答えてしまった。

しかし後からこれは間違いだと思った。見る側にそう伝わったのならばそこは あえて答えるべきではなかったのかもしれないと。つまり林さんの話にもあっ た、受け手側の想像力の芽を摘むことになるからだ。観る側がそう感じたの ならばそれも一つの可能性で、やる側もそういう風に見えたのかと受け止め るべきなのだろう。本が楽しいのは想像力であれやこれやと遊べるからだ。な らば芝居でも同じ事。

林氏の話にもあったが、タイトルやチラシの言葉で、なんとなく観客は「こう言 うものかな?」と想像(妄想?)しながら劇場に足を運ぶ。そのとおりだったら ああやっぱりと思うか、つまらないと思うか。逆に想像と違ったり、想像を越え たりすると凄いと思うか、何だこれはと呆れるか、怒るかなど。要は観る側の 需要による。同じ作品も観る側が違えば事実と多少違っていても理解され、 喜ばれることもある。逆ももちろんある。

ここ数回のワークショップでようやく身にしみて理解したのはやる側と受け取る 側の相違と相互理解だ。今まで私も何度かのモノプレイをやってきたが、最初 のうちは「自分が何をするのか」ばかりを考えていた。それが相手にどう伝わ るか(見え方、魅せ方)まで意識し始めたのは割と最近だ。これまではそこま で意識する余裕が無かったと思えば、その頃より少しは成長しているのだろう と思う。

とはいえ今でもまだまだ修行中。今日の発表も頭と体がうまくかみ合わず、と ても見せられたものではなかったと思う。精進だな。他の人の発表も観たが、 他人の感想を聞くと、自分が考えていたのとは違うこと、異なる感想をもって いて、なるほどそういう捉え方もあるのかと思ったし、やる側はどんな事を思っ てやっていたのかということにも興味がわいた。

こういった思考こそが表現の醍醐味なのかもしれないと思った一日でした。

ファクトリー活動記録      
活動形態:演劇ワークショップ グループC
活動日:2006年12月7日(木)夜
記録者:F.SATOH


僕がファクトリーに参加するきっかけになったのはNくんからの紹介でした。

参加する前の僕は、学校を卒業したものの特に何処かに行く事もなく只、漠 然とした日々を過ごしていました。

そんな日々の中でNくんからは連日のようにファクトリーの話を聞いていまし た。元々ファリファリ(Fメソッド)の話を聞いていた事もあって、少なからず興 味はあったので、漠然とした毎日を過ごす自分には何か引き込まれるモノが ありました。そこでNくんにお願いしてファクトリーの稽古を見学する機会を得 たのですが、その時凄い衝撃が僕の中を走った事を覚えています。

正直に言ってそこでやっていた事は、今までの自分には理解出来ないもので 得体の知れないものでした。でもそこに何かの《エネルギー》みたいなモノを感 じました。その《エネルギー》みたいなモノを感じた時に僕はこれをやってみた い、もっと深く感じてみたいと強く想いました。

しかしそれと同時にホントに自分に出来るのだろうかと云う不安もありました。 何故ならそこで行われているモノを只、マネをするのではホントの《エネルギ ー》みたいモノを自分のモノには出来ないと思い、そして自分にとってはあまり に衝撃的でゴールが見えないモノだったからです。その不安は今でも完全に は拭えてはいないと思います。

しかし稽古するに到ってそこにはちゃんとした理論があり、それを理解(全然 出来てはいませんが…)していけば、あの時に感じた《エネルギー》を自分でも 出せると思えるようになりました。これからも稽古を通して自分の内面を感じ、 肉体を感じ、それを自由に表現出来るようにしたいと思います。

ファクトリー活動記録      
活動形態:演劇ワークショップ グループC
活動日:2006年12月14日(木)夜
記録者:Y.NISHI


本日の稽古の流れはFコアから始まり、変則Fエチュードがあって、最後に「お い」(F基礎T)の掛け合いでした。今日のFコアは任意の姿勢でやった後に、 ちょっといつもと違うアプローチがありました。任意の体勢をとり、基本テクスト 以外も使って組み立て、合図で止めて、次の合図で体制を変えテクスト。それ を何度か続けて脱力。言い終わってから抜かずに次、という従来(?)と違 い、言い終わってないところを止めて、別テクスト(途中からとかも可)に移行 することが一種の"仕掛け"になって、内面に動きが出やすかったと思いま す。逆に体勢が変わったときに"抜け"ないように、内面との対応に集中しまし た。

変則Fエチュードは、以前に何度かやりましたが、一人が受け、もう一方がテ クストを発語、終わったところで受け手が抜け、発語していたほうが受け、次 の者がテクストに入る、というものです。これもFサークルと同じで入った瞬間 から始まっていて、組み立て、受け、退場までが一連の流れです。テクストの 組み立てや入ってからの相手との間合いなどはFエチュードのときの繊細さも 必要でした。自分には三回まわってきましたが、一回目は入り方に注意し、二 回目はちょっと崩して、三回目は集中力をものすごく使いました。やってみると 大体いつも「何かが違う」「こうじゃないかも」と思ってしまいます。今日は特に 二回目の崩したときに、声や組み立てに対し、体が軽いというか違和感があ って、内面が薄くなったように感じました。そのため三回目では前の二人がど ういう状況かをしっかりと視て、入る前に受けるということをしっかり行ったうえ で入るように意識しました。また、最近は組み立ての時には、以前林さんが、 たぶんテラの稽古時におっしゃっていた「吃語」のお話を意識するようにしてい ます。「ただ詰まればいいんじゃない、言いたくても言えない、言いよどむとい う体の状態があるはずだ」とか、そういう事だったと思いますが。自分の場合 は、「オレスト」のテクストの場合、自分が人殺しだとか、神をも汚す男だとか、 そういう認めたくない、しかしまぎれも無い事実である、そういう台詞はやっぱ り"口に出すのもおぞましい"類の想いが内面にあると思ってやっています。最 近ナレーションの事務所のスクールにも通っていますが、朗読などの時にこの 考え方はすごくためになっています。裏側の情報ってやつですね。

今日の林さんのお話にもありましたが、物語(情報)を伝えるだけなら演劇表 現でなくても、本でも十分だと。表層的な演技では伝わらない、軽い。しかしそ こに深さがあれば、あるいは受け手の状態にもよるかもしれないが、現実で はないかもしれないではない、何百年も前の話がリアリティを持ったり、感動 が生まれたりするかもしれないと。

深さを生むためには、情報を深く探ることも必要だと思うし、自分の内面と身 体の状態が合致していることも必要だと思います。最近思うのは、台本上の 人物がその台詞を生み出すに至る背景(内面)と自分(の内面)がどれだけ深 く関われるかということです。林さんが今まで何度も言ってこられたことだと思 うのですが、ようやく自分にもそのプロセスがなんとなくみえてきた気がしま す。もっと訓練してものにしたいです。

最後の「おい」(F基礎T)の掛け合いは、気の交流と同じで相手との受け・仕 掛けのやり取りだと思います。もう何年もやっているため時々「あれ?(動きや 仕掛け方が)パターン化しているかもしれない」と自分で感じることも多く、それ を回避するように気をつけていますが。今年入ったばかりの子達は逆にまだ うまくコミュニケーションが取れていないようで、聞いていてぎこちなさが伺えま した。自分も四年前の夏にワークショップを始めたばかりの頃はほとんどすべ てが手探りで、林さんに止められては何が足りなかったか考え、怒鳴られては その言葉を受け止め、仲間と共に試行錯誤を繰り返していました。彼らにもそ うあってほしいと思います。林さんの言葉通り、続けていて自然に見えてきた ことも多いし、自分を見る目も徐々に育ってきていると今は感じます。しかしな がらまだまだ自分もヒヨッコ。学ぶことは山ほどあるので、日々精進、ですね。



いい体験(稽古体験)の仕方をしていますね
2006年12月21日 林 英樹

西君、稽古記録ありがとう。今回の君の記録は稽古場での具体的体験をきち っと自己確認し、そのことを通じて、更に体験を深めている、という感じになっ ているように思います。体験と(演劇においての体験は特に空間的であり、フ ィジカルであると思いますが)、その体験により次に何を心的に体験したか(こ れは自分自身の内的世界の問題になりますね)とのキャッチボールが丁寧に されていて、こういう交流、交信の仕方は意義深いと思います。単なる満足や 快感、あるいは不満、消化不良、という感覚的なものだけでは、体験は深まる ことはありませんからね。

シアターファクトリーのワークショップ(稽古場)の意味と、そこに参加する仕 方、それを示唆していて、貴重ですし、他のWSのメンバーにも参考になると 思います。もちろん、ここに記されているのは「ことば」という記号に過ぎませ んから、その場に一緒に立ち会っていなければ単なる「抽象」にしか機能しな いかもしれませんし、またたとえその場にいても、ある程度、君と同じ程度の 時間や深さの度合いで稽古を体験し、あるいは君のように内省をしていない と、やはりこれらの「ことば」は通じない「ことば」になるでしょうが。その意味で は、発語し、あるいは全身で受け止めるべきテクストの「ことば」と常に重なる 問題でもあり、ここではやはり「ことば」(他者)と身体(つまり自分自身の内 部、それも深くまでを貫いた)の関係になるのだと思います。

昨日、実験創造工房を行い、集団創作で参加したK君、N君、T君は、その後 の打ち上げでの私やうめの意見、あるいは批評シートに書かれたストレートな 感想にかなりダメージを受けたようですが、君の記録を読んで、何らかの励ま しになればと、読むことを勧めました。その場に一緒にいたのですが、その 後、昨日の工房試演会で「痛い」思いをして、初めて君のことばも、ふところ深 く届くのではないかな。会話するとか、交流するとか、理解しあうとか、交信す るとか、人は簡単に言うけれど、ある心的実感、それは「痛い」思いに支えら れた、そういうものがないと届かない「ことば」もあるんだよね。それは他人事 ではなく、私自身も人生の中で痛いほど「苦しい」体験を何度も体験し、それ ゆえに自信を持って言えることなんですが。

「実験創造工房12」、お疲れ様でした
2006年12月21日(木)  林 英樹


昨日(2006年12月20日)の実験創造工房試演会、出演参加した方、立会い参 加された方、お疲れ様でした。

2003年にシアターファクトリー企画としてスタートしてまる3年、最初に比べて 隔世の感があります。自分が演出するものであれば、覚悟は決まっていて返 って楽なのですが、何が飛び出すか、蓋を開けてみるまでわからない(笑)、 演技者が全ての責任を持つ工房試演はこちらもはらはらものです。はじめは やっているもの同士が、互いを見る、知る、という濃密な関係の上での上演 (密室的な上演の場を作る)、そして立会い、という構図を取ってきましたが、 徐々に外部者(「観客」、知らない人)も客席に座るようになり、ただでさえ知ら ない人ほど苦手なものはない林としては、「観客」恐怖症があって(目の前に 個人として現れる、ちゃんとコミュニケーションが取れる相手は問題ないので すが、知らない人ーただ遠くにいてよくわからない人、が固まって層をなす、そ ういう対象が幼少期からの個人体験=トラウマのためか極度に嫌い、苦手、 筋肉痙攣する)、まあそれゆえ演劇体験、演技体験(大勢の人前に出て緊張 しなかったのは、舞台が初めてでした)をここまで続けられた根拠でもあった のですが。

前置きはさておき、結果的には昨日の試演は実り多いものでありました。むろ ん、全てが良かったわけではありません。岸君たちにはずいぶん酷な、きつ い感想を言ってしまいました。でも、きっとプラスに変えてくれると信じてのこと です。参加されたみなさん、立会いの方、すでに批評シートをいただいている 方もぜひ改めて感想や何やらをこの場でもお願いします。

感想というか、近況
2006年12月23日(月)
記録者:M.NAKAMURA


月曜日のワークショップに参加しています、**です。
しばらく休会しておりましたが
11月に復帰しました。
ご無沙汰しておりました。
3月から参加させて頂いたものの
定期的に通えないまま時間だけが過ぎ
夏に勝手ながら休会させて頂いて
その間にうっかり就職をしました。
もうこのまま退会かと思いきや、思いの外残業がないことが判明し、現在に至 ります。

ワークショップでは自分の体の不自由さを痛感し
また、皆さんのエネルギーに圧倒されています。
凄い所へ来てしまったと
2005年の藤野合宿に飛び込んだ時にも思いましたが
その思いは今も続いていて。
自覚していなかったというか、知らなかったというか
頭で理解しようとし
意外と感覚で物事を捉えることが苦手な自分に気付きました。
試演会立ち会いでもそうですが
感想を求められた時に何を言ったらいいんだろうと
戸惑う自分がいます。
こんなことを言って大丈夫だろうかと真っ先に考える。
少しずつ、変化していったらいいなと思います。

感想というか、近況でした。
携帯からなので改行が読み辛いかもしれません。
ご容赦ください。




急がず・・・続けてください
2006年12月24日 林 英樹

無理せず、人に合わすことなく、自分自身をきちんと見つめて、自分の速度で 少しずつ変わっていってください。変わるべきものは自ずと変わり、変わる必 要のないものはそのまま変わらず残ると思います。何が変わるべきで、何は 変わらなくてもいいのか、少なくとも身体レベルでは、このFメソッドを続けてい れば、自然に自分の身体が教えてくれると思います。人によっては一年で、人 によっては5年で、それぞれの速度は違います。でも変わることがより自由な 感じにつながり、あるいは楽しめる感じに結びつけば、その変化は正しいと思 いますし、もしいま自分が不自由であったり、そういう自分に苛立たしさを覚え るなら、ぜひ続けてみてください、急がず。

実験創造工房12、総括
2006年12月24日(日)
記録者:M.TUCHIDA


今回の試演会への取り組みの中で、前回の試演会よりも、題材やテーマとの 向き合い方が少し分かって来たように思います。題材をどう使うのか?題材を 基に何を考えるのか?題材をある視点(今回は、岸君から提示されたテーマ、 「価値」)から考えるとどう読み取れるか?そして、自分自身との距離感。


そこに書かれている表層上の言葉としてだけの意味ではなく、もっと深い場所 にある、作者の意志。台本(本、読み物)を読み込むという当たり前の事が今 まで出来ていなかった自分が恥ずかしい。

今回、『アンチクリスト』(ニーチェ著)を読み込んでいて、唐突に、「わかった」 という感覚に出会いました。

ニーチェが言わんとしてる事が理解出来た気がしました。でも今、ひと段落つ いて考えてみると、確かに、誤った理解をしていたわけではなく、ただ自分自 身が、題材とコンタクトを取りやすい位置、つまりは自分に近い距離、わかり やすいところで『アンチクリスト』を理解していたに過ぎないんだなと。

そのため、『アンチクリスト』自体が僕個人の問題になり過ぎ、題材と全く距離 を置く事が出来ませんでした。全体の意志よりも、個人の意志に偏り過ぎたと 思います。

でも今、思いっきり近づいたせいか、自分自身と題材の間に距離をとるという 事が少しづつ分かって来ました。まだ感覚レベルでしかなく、頭では理解出来 ていませんが。。
更に日々の稽古、日常で探っていきたいと思います。

きっとまた『アンチクリスト』に挑戦する時が来ると思います。その時はとことん まで距離を離してみようと思います。そうすれば、一番丁度良い距離が少しで も見えてくると思うので。

終わった後のあのもどかしさ、悔しさ、虚脱感、忘れません。




俳優は何を語れるのか
2006年12月24日  林 英樹

思いと想いを重ねると「思想」とは東洋人(漢語は中国のものですし、その基 の意味を組み合わせて「自由」とか「自然」とかを考えたのは明治の日本人) はいいことを考えますね。だからきっと日本語の「思想」という言葉は、は西欧 の伝統で考えられてきた「思想」と違う、観念的ではなくもっと足元や生活実感 からのものじゃないかな。つまりインテリのものじゃないもの。そしてニーチェ は、ヨーロッパの観念論、生活から離れた理屈の上での「思想」「哲学」に身 体を張って抗い、欧米観念論の延長上に登場した19世紀や20世紀の世界 を覆ったニヒリズムやファシズムの到来を拒んだのではないかと思います。

通常の演劇の場合は、観客の前に作家(思想)、登場人物、俳優その人、こ の3者が姿を現すわけですが、今回は通常の芝居(筋や物語を台詞で語り、 あるいは登場人物が筋や物語の展開のガイドをする)の形とは違い、よりパ フォーマティブ(登場人物の比重が小さく、あるいはなく、俳優個人、演者その ものの存在が前面に出る)なので、君らと君らが参考としたテクストを支える 作家の思想、との関係が大きくものを言うよね。更にそれを通して観客に「何 が語れるのか」あるいは「語れることが可能なのか」、そういうことも含まれてく る。「語る」者は何を根拠に、何を語れるのか。もし語れるとしたら、どのような 手つきが必要なのか。『人形の家』を参考テクストとして作られた佐藤和紅の 試演、同じく根岸の試演、はその手つき、自分との関係をかなりいい感じでク リアーしかかっていたと思います。そうすると、見ている方も何かしら「共感」あ るいは、その場やその行為(表現)を「共有」あるいは支持できる、あるいは楽 しめるのだと思います。

林・ワークショップが案内する「世界」
ファクトリー活動記録      
活動形態:演劇ワークショップ グループA・C合同
活動日:2006年12月25日(月)夜
記録者:N.WAKABAYASHI

 
稽古場日誌は、各人がその日の稽古の成果や感じたことを、詳細に投稿す る作業場です。捉え方がこんなに幾様にもあるのを見るにつけて、人間の奥 深さ感じると同時に一括りにしてはいけない多様性をいつも反省させられま す。投稿者は、時間をかけて考えて、それを文章にまとめて、推敲を重ねる苦 労と勇気に真撃な姿勢を感じています。今回の私の報告は、ちょっと視点を 変えて、ワークショップから派生する周辺世界が、私に与えている影響につい てです。

今年、林さんが演出した公演は数多くありました。テクストの原作者だけでも、 ソフォクレス、岸田理生、永田洋子、萩尾望都、中島かずき、ケラリーノ・サン ドロピッチ、イプセン、演出することが決まっているものに、ドストエフスキー、 野田秀樹があります。演出を楽しむ為に、邪道と叱られるかもしれませんが、 私は戯曲を読んで公演を見ることにしています。戯曲では分からない理解が 出来るからです目これらの作家は私にとっては初めての出会いのものばかり でした。ワークショップに参加していなければ出会えない世界です、幸いなこと に、公演の前後に、この演出作品に関連した話が聞けます。演出家から自作 の話が聞けるなんて、あっていいものかと思うぐらいもったいない話です。世 界の広がりを感じさせてくれます。

直接演出されてなくても、話の中によく出てくる劇作家にも興味が出てきます。 どの作家も難解で、アナーキー、で今までの私の範鷹で無かった作家が大半 ですが、覗いてみたくなります。其の例が、先日仕事で青森に出張した際に、 三沢市に途中下車して、寺山修司記念館を訪ねてきました。よ一くわからな いけれど、妖しい魅力があります。1人では生涯めぐり合えなかった世界に、 間違いありません日今年の正月休暇には、ドストエフスキー「罪と罰」を読んで みようと計画しています。20代の頃に何べんも読み始めましたが頓挫した超 長編作品で、公演までに読み終えるかどうか分かりませんが、始めてみるつ もりです。

こんな楽しみ、苦しみが、60歳になって見つかったのは、望外の喜びです。


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