|
6月23日
15:30ーセミナー
▼バルバがはじめ少し話をし、ニコラにつなぐ。
バルバの短いコメントがある。
「ドラマツルギーの話から始めたい。」
●ドラマツルギーについての言及
ニコラ・サバレーセ
古代劇では、劇の始まる前にすべての状況、話をすでに観客は知っていた。
時間の統合(一致)について。
古代劇は、彼らの時間と重なっていた。朝に始まり、夜まで続く。
初期の劇(西洋)を今日上演する際の問題とは。
今日の観客はその意味の全体、背景、コンテクストを理解していない。フランス革命
期のヴォルテールの作品は、今日あまり上演されない。今日の時間ではない。ファッ
ションも違う。だからまず役柄を説明しなければならない。
全体性、統合性:初期はあまり語られていない(語る必要がない)。すでに多くの事が
クロスオーバーしていたわけだから(結合)。時間、役柄。空間との結合の中でドラマ
ツルギーは語られていた。
では、現在の解決は?
共同体という基盤とドラマツルギーの切り離せない関係。観客からあまりに離れてい
ると、エキゾティックな感じになる。今日なお重要な作品、たとえば『ロミオとジュリエッ
ト』、『ウェストサイドストーリー』で同じドラマツルギーを使っている。設定だけが違う。
他の世界(非西欧)のドラマツルギー。
有名な作家でなくて、もっと「素朴」な人々による劇のほうが有効な場合がある。
能のドラマツルギーに関する話。能では、僧が聞く。場所について、戦闘、悲劇的な
恋、歴史などについて。後半、俳優は演技で歴史、ドラマを語る。音楽、踊り、演技で
現前。観念ではなく、すべての方法で論理を現前させている。
ギリシアの民主主義の例。投票システム、の問題。夫人、奴隷、外国人は除外。
近代の民主主義。しかしやはり婦人の参加も戦後からでしかない。民主主義はまだ
若い。
同じようにドラマツルギーもこれからだと考えられる。
ファンクション;戦略の問題
ジュリア・ヴァーレイ
「その劇は機能していたか、機能していなかったか」という問い。これはコンテキストに
よる客観化。
シーラでの経験(彼女のワークショップのこと)、同じ動作でも、関係が壊れると機能し
ない。二人が同じように、帽子をもう一人にかぶせる動作をするとする。だが、一方は
エネルギーの喪失を感じさせ、一方は力強さを感じ、見ているものを惹き付けてゆく。
質問 ドラマツルギーとは?
バルバ 混沌からのスタートを、我々が欲する。
1、方向の喪失
2、どこに行くか、わからないとき、どう俳優はドラマツルギーとかかわれるか。
質問 なぜ我々はドラマツルギーについて考えるのか?
バルバ 西欧では「ドラマツルギーは戯曲」、これではつまらない。日本の演劇では
(能や歌舞伎などを言う)技能とルールが問題。
質問 未知に関するリアリティの問題。なぜ、我々はドラマツルギーについての疑問を
考えるのか?
アンナ 俳優は他者以外にプレゼンスしなければならない。ジュリアが発言した例を
あげる。椅子がスパゲッティに変容。ジュリアは音を聞く。そこでわたしは自分に聞く。
木の背後で・・・エネルギーの所在を感じる。観客は創造の出発点としては重要では
ない。
フェルデナンド・タヴィアーニの発言
「目的としてのドラマツルギー」。
ドラマツルギーについて語るのはドラマツルギー自体にとって実りあるものでない。俳
優にとってのドラマツルギーは一点だけにおいて有用。俳優の演技はエレメントのひ
とつ。人工的な。
ニコラ・サバレーセの返答
時間の移動について。映画のフラッシュバックの例。子供には問題、彼らはこの機能
(フラッシュバック)を理解していないから、突然の時間の移動は困惑させる。
ドラマツルギーのファンクションに言及するための具体例。19世紀の有名な小説や
映画をみればドラマツルギーのファンクションはよくわかる。
ジュリア・ヴァーレイ
理論と実践の「間」のことば。だからドラマツギーについて言及、これが私の答え。そ
れはわれわれにとって身体的な目的だ。インコーポレイトと、本からではない、身体を
通しての「知」。このリアクション。俳優だけでなく、演出家の問題でもある、なぜなら演
出家も身体的だから。俳優が客観的と考えても、他のものは「幻想」というかもしれな
い。だがそれは必要性のある「幻想」。
フランコ・ルフィーニ
スタニスラフスキーは俳優に演技のあとしばしば、「私はきみを信じなかった」、と言
う。俳優は反抗する。「他者を信頼する」ことを拒絶。アメリカで、コポー。彼は「発表」
を好まなかった。彼の考えは他のものより重要。「人を信じる」、それは幻想。「真実」
は幻想、そんなものはない。についての教授の言及続く。
ここでフェルディナンド・タヴィアーニから、フランコへの反論。そんな意見は空虚。ここ
で何かを発見する必要がある。二人の間に、対立が生じる。
ミレーラ・スキーノ
ジュリアは言った、「ドラマツルギーはなにか実践と理論の「間」」これは重要。でもリス
クがある。わたしにとっては「実践と理論の間」、では正確にはない。むしろ掛け橋。
「間」と言うのはクレイジー。ひとつの領域から他の領域への言語の転用である。「イ
ンタラクチュアル」
+++ドラマツルギーについてなぜ我々は語る必要があるのか。
バルバは、戯曲に関するドラマツルギーがすでに機能し、その機能していることがわ
れわれの演劇の発展にとって障害となっているから、もっと劇(非文学としての、全体
芸術としての)自体のドラマツルギーとはなにか、を確認する、ためにやっているので
はないか。答えはすでに多く語られている(非西欧文明圏で。世阿弥がその代表
格)。しかし、それがないかのように、あるいは全近代(文明の外部)の遅れたもの、
エキゾチックなものとしてしか流布していないから、ここであたらめて劇のドラマツルギ
ーは何かを確認したいのだろう。
フェルディナンド・タヴィアーニ
創造プロセスと結果、創造過程での「幻想」の必要性。これは別のテーマ。例、庭で
食物を育てる。庭の状態、水、ケアー。結果、あなたが信じる人の判定、答えは重
要。この「幻想」は必要だ。
芸術的成果、質という結果。3日間のワークで何か(の技能)を得た、という「幻想」の
リスクは無論ある。
「フイールド・オブ・コンデション」。機能している、いないは関心ない。創造プロセスの
コンデションについてのみ関心ある。我々は結果について話しているのではなく、コン
デションについて話しているのだ。
我々は「そのパフォーマンスが素晴らしい」という問いについて話しているのではな
い。インディアンの女性の名前、「山の向こうにある美しい世界」。だれもが空虚(こと
ば)について話している。
ニコラ・サバレーセ
何がワーク(仕事)の意味か。
アクションの意味、ダイナミズム。ドラマツルギーについて話すとき、アクションとは何
であるのか。
コンテクスト、この演技行為が向かっている誰か、についてのコンテクスト。結果では
なく、コンデションの。
スタニスラフスキーについて、たぶんここの誰よりも自分は知っている。
コンテクストアクション
1、心理的身体的メカニズム
2、能動の中の受容(リアクション・イン・ザ・アクション)。キャラクターとしての俳優、役
割の中での。ドラマツルギーは俳優のコンテクスト、役の中の。
3、歴史のなかでのコンテクスト。たとえばハムレットを、演ずる時、誰がドラマツルギ
ーの主人(オーナー)かではなく、何がコンテクストか。スタニスラフスキーはこのコン
テクストを分析した。
スタニスラフスキーはすごくリッチな家庭だった。
役の中での仕事、演出家のドラマツルギーに言及した。ドラマツルギー、他の俳優と
のつながり、サリバンによる[ミカド]。スタニスラフスキーは、日本の劇団をロシアで
見たとき、彼の家に招待した。扇子の使い方を日本人から習い、一緒に歩き、彼らロ
シア人俳優は、日本人になる(役)、試みを真剣に行った。日本人になることをめざし
た、普通の。しかし、身長が日本人とは噛み合わない。これはキャラクターは役では
ない、の証明。スタニスラフスキーの翻訳、はとても罪深い結果を生んだといえる。
「俳優のドラマツルギー」と「演出家のドラマツルギー」は同じ意味。俳優にとっては明
瞭。1から3のレベル。俳優では機能、しかし、演出家では?演出家のドラマツルギー
は?超課題(スーパー・オブジェクティブ)この翻訳はどこでもひどいものだ。「俳優の
ためのドラマツルギーのレベル」についての戦略をスタニスラフスキーは語っている。
俳優にとってのドラマツルギーのレベルに関する戦略のことだ。
サイコ・フィジカル・・・の問題点:兵士の役の俳優に、スタニスラフスキーは多くの質問
をする。俳優は彼の指が兵士のキャラクターに属していることを認識していない。これ
はひとつのサンプル。
マインド・オブ・サイキ・・・きわめてロシア的言語言及。プリサイス・ダイメンション・オ
ブ・ホール・キャラクターをスタニスラフスキーは求めた。精密性である。「アイ・アム・
ヒム(私は彼である)」、これが俳優のキャラクターの仕事。精密な演技、目的と理由。
例、キプロスでのオセロ。結婚した直後、オセロは戦闘から帰還。彼女は戦場のこと
は何も知らない。彼女はコンプリメントに忙しい。スタニスラフスキーはデズデモーナ
がイヤーゴーの暴露に????(聞き逃す)。知っていることは、すべてキャラクター
を通じて理解される。「イヤーゴー」はただ女性を馬というふうにしか考えていない、を
通じてしか認識できない。ジェネラルアクションに戻る。それは俳優を強制してゆく戦
略。知識との合体。演技を「何か変容しないもの」として固定化。スタニスラフスキーは
それを「わたしはあなたを信じない」という。
アクロバテッィクな身体:背骨の緊張と感情?
アクションを作るための有効な戦略。
エイゼンシュタイン。
スタニスラフスキーは俳優のオルガニズムからはじめた。
ISTAのドラマツルギー・・、自然ではないアクションの探求。
心理的身体的プロセスは助けになる。
19:00−
●バルバの締め括り
明日は、「過去の戦略」についてから話し始めたい。結果について、他の戦略につい
て明日聞きたい。
ターゲットについて、グロトフスキーのパフォーマンス、俳優の詳細にターゲットを見
た。歴史的コンテクストに自分をどう接近させるか。他のコンテクストに。演技行為、と
その影響。ドラマツルギーは複雑な統合体。演技を構築するのに必要な数億のビッ
ツによるもの。
フランコ。ミステリーとしての人間存在。大きな不思議、未知の存在、としての人間。
複雑な組織体を持った存在。身体、こころのシステム、は不可解。
表現、パラドクス。「普通」「常識」の破壊のためには狂気的演技をしなければならなく
なる。
「思考の具体化」
「モノトミー」
「セニックライフ」、いかに「セニックボディ」になるか?
スタニスラフスキー、または20世紀の他の「師」ーに戻ると奇妙さを感じる。シアター
マシーン。ことば、金、オルガナイザー・・・発見品とならない。スタニスラフスキーは極
端主義者、貴族。
スタニスラフスキーはモチロン金持ち。15名の日本人を家に招待できるほどだ。演出
家のメーンテーマ、夢ではなく、スタニスラフスキーは人に親切で、傲慢でない、なぜ
なら金持ちだから。
技術について言及するとき、個人的神話、迷信的情熱がついてまわる。
組織化の構築。重要なことは技術ではなく、「超迷信」だ。
シアターマシーン。観客は典型的なシアターマシーン。なぜなら、彼らは複雑さに満ち
ている。観客は批評家のようには出来ない。
10年以上、同じ劇団にいるのは通常「不自然」である。
複雑さの潜在的可能性。スタニスラフスキーは俳優を失ったが、企画を持っていた。
次の世代の俳優を持っていた。新しい俳優。「プロジェクトシアター」は「シアターマシ
ーン」の内側(本の中、アルトーとか)でやるしかない。ブロードウェーはシアターマシ
ーン。市場を自動的に作ってゆくのがシアターマシーン。プロジェクトシターは明確。そ
れは将来にむかう言葉。
この困難性。生き残りたいなら、それを破壊するしかない。牢屋に入るようなパラドク
ス。牢屋がもっとも自由な場所でもある、などの発言。
(以下不明)
イプセンのテクスト、もしやるなら・・??自分のリアリティから程遠い。ノルウェーから
アフリカまで行かなければならない。再創造をしないとならない。この創造のすべての
源は、憎悪。いかにイプセンがノルウェーを憎悪したか。
混沌の方法論。
身体的な法律(ロウ)がある。3つの要素。インターセクション。朝のワークショップ。ア
ルミ、歌、このインターアクション。まず、「創造の自由の頂点」、何故なら観客がいな
いから。2、演出家。想像性の自覚。ブラジルのトロピカルな樹木。400年前の種族
が生活。これが想像性。「迷信」こそが想像性。3、この場所で、観客を考える。どう
「つんぼの」観客をとらえるか。観客は「好き、嫌い」という。がそれはセルフィッシュ。
観客は他の種のエネルギーと出会う必要がある。
インテレクチュアル
断片をどうつなげるか。東洋の演劇、我々はその言葉はわからないが、断片からそ
の全体のつながりを理解できる。観客という標的への矢を創造しなければならない。
|
|
|