「ユーラシア演劇大学」リポート
世界演劇のカリスマ「ユージェニオ・バルバ」リポート
2000年、イタリア、シーラ
林 英樹記
舞台となったイタリア南部の小さな村シーラの浜辺。
とにかく、食べ物がうまい!!舌がとろけた。。。
ただただ地中海の紺青の海から照りつける熱い日差し、
南イタリアの小さな村シーラ
そこにイタリア全土からバルバに会いに50人の演劇人が集まった。
会場は海に面した崖の上の城砦跡!!(上の写真)
THE UNIVERSITY OF EURASIAN THEATRE
Since 1990, in collaboration with the University of Bologna, ISTA has had a new
activity: The University of Eurasian Theatre. It addresses a wider spectrum of
participants, up to several hundred, stretching from beginners in acting and
directing, university students and scholars, to theatregoers who are interested
in the secrets of the craft.
"When I speak of Eurasian theatre I am not thinking of theatres within a
geographical area, but of a mental dimension, an active idea which has inspired
the theatre of our century. This concept implies the experiences which for all
artists, whatever their cultural origins, constitute the essential points of
reference for their theatre practice: from Ibsen to Zeami, from the Peking
Opera to Brecht, from the mime of Decroux to Noh, from Kabuki to Meyerhold's
bio-mechanics, from Delsarte to Kathakali, from ballet and modern dance to
Butoh, from Artaud to Bali, from Stanislavski to Natya Shastra.
We could say that Eurasian theatre represents a common country: that of our
craft, of our professional identity. Or else, it is a legacy, that which remains and
can be shared equally in the country of transition which is theatre".
Eugenio Barba
The University of Eurasian Theatre carries out periodical yet irregular activities.
These consist of conferences and encounters of a theoretical-practical
character. It has held the following sessions:
Padova, Italy, 2-8 March 1992, organised by Nin Scolari, Teatrocontinuo. Its
theme was "The Construction of Form", a five-day seminar open to the public
with demonstrations of the creative process by Sanjukta Panigrahi and Odin
Teatret's actors. There was also a two-day seminar on "subtext versus subscore
" for 30 invited specialists.
Fara Sabina, Italy, 21-31 May 1993, organised by Pino di Buduo, Teatro Potlach
and dedicated to the memory of Fabrizio Cruciani, one of the founders of ISTA.
Its theme was "Parallel Dramaturgies", a ten-day seminar for 30 invited
specialists and one final day open to the public. The participants followed and
compared two different directors' approaches: those of Sanjukta Panigrahi and
of Eugenio Barba who were working with the same performers on an
interpretation of Kalidasa's Shakuntala.
Scilla, Italy, 9-16 June 1996, organised by Claudio La Camera and Maria Ficara,
Teatro Proskenion, within the framework of Linea Trasversale's activities. Its
theme was "Solitude, technique, dramaturgy and revolt: The subterranean
history of contemporary theatre". Its programme included practical activity led
by Eugenio Barba, Julia Varley, Torgeir Wethal and Iben Nagel Rasmussen
together with the participants of her seminar "Vindenes Bro". Kai Bredholt was
the responsible of two barters. Lectures about theatre history were given by
Clelia Falletti, Piergiorgio Giacche, Laura Mariani, Marco de Marinis, Claudio
Meldolesi, Franco Ruffini, Nicola Savarese, Mirella Schino and Ferdinando
Taviani.
Scilla, Italy, 1- 8 June 1997, organised by Claudio La Camera and Maria Ficara,
Teatro Proskenion, within the framework of Linea Trasversale's activities (1-20
June 1997). Its theme was "Learning to learn: The Transition from action to
reflection. Its programme included practical activity led by Eugenio Barba,
Kanichi Hanayagy, Sae Nanaogi and Julia Varley. Tales, polemics and visions
about theatre and dance in our century were exposed by Eugenia Casini Ropa,
Laura Mariani, Marco de Marinis, Clelia Falletti, Pier Giorgio Giacche, Claudio
Meldolesi, Franco Ruffini, Nicola Savarese, Mirella Schino and Ferdinando
Taviani.
The session was accompanied by a theatre festival.
Scilla, Italy, 20-25 June 1998, organised by Claudio La Camera and Maria
Ficara, Teatro Proskenion, within the framework of Linea Trasversale's activities.
Its theme was "Scrivere e raccontare il teatro: un invito alla testimonianza
scritta delle esperienze teatrali" "Writing and telling theatre- An invitation to
the written testimony of theatre experiences" - This historical-practical session
included meetings with Eugenio Barba (Odin Teatret), Franco Ruffini (Universita
Roma III), Nicola Savarese (Universita di Bologna), Mirella Schino, Nando Taviani
(Universita L'Aquila) and Julia Varley (Odin Teatret).
Guest: J.M.Pradier (Univ. Paris VIII).
Scilla, Italy, 22-28 June 1999, organised by Claudio La Camera and Maria
Ficara, Teatro Proskenion, within the framework of Linea Trasversale's activities.
Its theme was "Drammaturgie dell'attore e del personaggio" - The actors' and
the character's drammaturgies. Its programme included practical activity led by
Eugenio Barba and Julia Varley, Augusto Omolu and Ory Sacramento (Brazil,
Candomble dance and rythms). Nando Taviani, Mirella Schino and Nicola
Savarese gave lectures on different dramaturgical experiences in theatre
history. Fifty participants were present from Argentina, Brazil, Cuba, Italy,
Scotland, Japan and Spain.
The next session will take place in June 2000 in Scilla.
For further information please contact:
Teatro Proskenion, Via Umberto I°, 33 - 89058 Scilla, Italy
tel. + 39 0965 790478
fax + 39 0965 790483
e-mail: proskeni@tin.it
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2000年(平成12年)6月19日
今回の旅は、現代世界演劇の伝説的カリスマ、ユージェニオ・バルバ氏と出会うこ
と。何とか居場所を捕まえ、地元のオルガナイザーとコンタクトをつけ、いきなり見
ず知らずの相手の懐に飛び込んでみることにした。
住居のあるアムステルダムからローマまで、KLM便を使い、ローマからは列車の
旅にした。
ローマ到着
ローマ空港着。空港駅で列車乗り場を捜すのに手間取る。何とか見つけてローマ・
テルミニ駅へ。以前、初めてローマ駅に着いた際の駅周辺のうさんくさい印象か
ら、空港に着いたら周りはスリばかりと身を引き締めて降り立ったが、空港のほう
はさすがに印象が違っていてモダンな雰囲気。やはりフツーのイタリア人は普通の
イタリア人なのだ!ローマ駅も以前と様子がかなり変わっていた。駅前は以前のご
ちゃごちゃした感じではなく、きれいになっていた。ここで駅周辺を歩いて、一泊す
るその日の宿を見つけ、明日シーラへ向かうことにする。駅のそばを一通り捜し、
何件かまわった後、比較的雰囲気の良いホテルに投宿。
ホテルに荷物を置いた後、さっそくローマ市内を散策。ローマは世界の古都なの
だ。2000年前と現在が同居している。アテネもそうだったように。町の真中に「古
代」を抱えて生きている、生活するというのがどういう影響を人々の精神に影響を
与えるのか。何でも異常なまでに「新らしい」ものに価値ありとする日本人とどう意
識が違うのだろうか?ふと思った。
6月20日(火)
朝、IC列車、8時ローマ・テルミニ発レッジオ・カラブリナ駅着に乗る。二時間でナポ
リ着。その後、トンネルの連続、海岸線が非常に美しい。家々の壁はクリーム色、
レンガ色の屋根が映える。切り立ったごつごつした岩山が民家の背後にまで迫っ
ている。海は限りなく目の醒めるような青。これが地中海だ。二等コンパートメント
の料金は全長688キロメートルで750,000リラ。ってことは日本円で4,000円くら
い。列車は驚くことにほぼ定刻どおりに走っている!驚き。
すぐ目の前にシシリー島が見えてくる。イタリア「本土」からこんなに近い距離にあ
ったのか、と驚く。最もシシリーに近い場所ヴィラ・ジョバンニで乗り換えなければな
らないと知らず、そのままコンパートメントに乗って、危うくシシリー島に行ってしまう
ところだった。車掌に聞いたら、この車両でいいと言ったのに!なんていいかげ
ん。まあ、外国では、仕事に対するいいかげんさは繰り返し経験しているし、ここは
イタリアだ。彼らにとって、職場も職業も単なる家族を支える手段にすぎない。家
族、家庭が何より大事、自分の人生が何より大事で、仕事は一生懸命するもので
はない。だからこちらもあまりあてにしないで、自分で何とかする必要がある、常に
注意して、降りるべき駅が来たら降りる、ヨーロッパでは、車内放送で停留所を教
えることは全くなく、出発も合図無しで黙って動きだすから、つねに「緊張」して自分
で何とかしないとならない。「個人主義」は大変なのだ。頼れるのは自分のみ。だか
ら、列車の中で寝ている人間もいない。第一そんなことをしたら、荷物が消えてい
る。それは自分の不覚ってもの。
ヨーロッパ滞在で多くを学んだ。あらゆる点で、日本と違う。というか、日本が特
別。長い時間をかけて生まれた共同体意識の強さ、助け合い社会から生まれた意
識構造は、海外では「甘さ」になる。が、いつも個人が個人を前面に出さず、集団
の中に静かにしていれば何とかなる、という社会(日本)は、「緊張」しないで生きて
いける面での良さもあるにはある。とは言っても今は「良さ」は共同体の崩壊ととも
に消え、その欠如、欠落の部分だけが肥大している、それが日本の現
状。。。。。。
レッジオ・カラブリア
列車を降りて、別の列車に乗り込む。レッジオという駅名がつづき、「どこが目的の
レッジオだ」、と思っていると結局、終点だった。駅を降りると、一応南部イタリアの
中心的な都市の一つなのだが、ひどくうらぶれた感じ。南イタリアは、人情は厚い
が貧しい、と聞いていた。が、北部の都市に比べ、文化がここにはなかったので
は、と思わせるほどの違い。北部の都市の景観の豊かさに比べ、「なんだこりゃ
あ」ってくらい貧しい景観。日本の田舎の小さな都市と変わらない。ルネサンスやベ
ネチアの栄光は南部には及んでいなかったようだ。などと嘆息する間もなく、一泊
のホテルを捜す。が、ない。かなり駅の周りを歩き回ったが、ホテルらしきものはな
い。インターネットで探したホテルを求めて、その地番を捜すが見当たらない。来る
ところを間違ったか。
シーラ
6月21日
午後、シーラに到着。無人の駅、日本の北海道の田舎の駅のようだ。主催者指定
の民宿に直行。部屋割りが終わり、夕方5時、丘のうえの城塞あとでオープニング
セッション。案の定、「民宿」の人間は誰も英語はわからない。こちらは、イタリア語
は挨拶程度のレベル。これは「無謀」な旅、無謀な場所に来てしまったか?まあ、
何とかなるだろう。南部イタリアの人間は見るからに人が良さそうだし、あったかみ
を感じる。こういう相手は言葉が通じなくても、気持ちが案外伝わるものだ。相手も
一生懸命、こちらを理解しようとするだろうし。
とにかく、ようやく着いた。ヨーロッパ(全世界的に)では「カリスマ」のユージェニオ・
バルバとつながりを持つのは「ここに来るのが一番、その片腕ジュリアとまず信頼
関係を築くのが先決」とアドバイスを受け、ここまではるばるやってきた。イタリア好
きの日本人の観光客もさすがに、こんなところまでは足を運ぶものはいないよう
だ。論の内容を書きます
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セミナー
ユージェニオ・バルバ、
フランコ・ルフィーニ(演劇研究者)、
フェルディナンド・タヴィアーニ(演劇研究者)の話
その場の状況・・・・
▼セミナーは長時間にわたり、しかも全てイタリア語!!!で行われた。
私を除いて五十名近い参加者の殆どがイタリア人(アメリカ人、ブラジル人、ギリシ
ア人の三名を除いて)。イタリア語は「ボンジョルノ、エヘヘ」レベルの私は、いやは
やとんでもないところに飛びこんだ、と観念した。こう言うとき、好きではないが英語
はありがたい。どこでも英語のわかる人間が必ずいる。そう、英語の価値とはこの
一点!英語が「国際語」と誤解している日本人にはわかりずらいが、ヨーロッパで
は英語はイギリス、というヨーロッパの国の一言語でしかない、という認識なのだ。
南米でインターナショナル言語は、断然スペイン語であるし、北アフリカではフラン
ス語、中国と全世界の華僑ネットワークでは中国語だし。。。。
で、ともかく主催者(本企画の地元オルガナイザー)で英語を話せるマリアとさっそ
く「仲良し」になる。律儀で理知的、しっかりした感じの女性である。大学で演劇を学
び、そして古里のこの地で、演劇活動を地道に行っている。日本で言うと、鹿児島
の指宿あたりで演劇をやっている、という感じ?しかも知性に溢れた女性が。さす
がにこの寒村から見て、気の遠くなるほど遠い「地の果て」日本から私がたった一
人で駆け付けた、というのはインパクトがあった。それゆえ、彼女は熱心に通訳を
してくれた。いつも私の横に座ってくれて、その都度、他の参加者の邪魔にならな
いように、時には中断し、時には仕事でどこかに急に消えながらも、疲れも見せず
にイタリア語を英語にしてくれた。感謝。しかし、簡訳も多く、結果的に断片的メモ、
に近いものになったことを承知いただきたい。
またセミナーの最中に小声で同時通訳の状態だったため、その上記録は取れな
い。バルバは録画などの記録は一切認めない。その場に来て聞くべし、ということ
だろう。グロトフスキーの直接的な流れの上に彼の活動はあるのだからうなづけ
る。そのため、かなり曖昧な記録であり、五、六時間続いた話しを断片的に思い出
しながらの記録でもある。
更に、元の発言が全てイタリア語であるものを、その場で専門の通訳でもないマリ
アが親切で英語に換えながらのものだから、彼女の翻訳能力の問題や、イタリア
語を英語に換えた段階で元の意味、ニュアンスが失われているところも多々ある
だろう。それを更に日本語にどう翻訳すべきか迷う部分も多く、演劇関連の翻訳経
験のない私には、キャパシティーオーバー状態。だけど、今回は日本人にとっては
貴重な(稀少な)経験、南イタリアのうらぶれた小さな寒村で行われたイタリア人だ
けの秘儀に飛びこんでしまった、そこで行われたことの「面白さ」、交わされた演劇
に対する概念、認識の重要さ、を残したいと思い、断片的ではあるが記述する。
バルバからの報告
◎シーラと自分は深い関係にある。
◎6つのポイント
◎贅沢のコンデション
◎知識の伝達、知っていることを忘れる
◎ここでの滞在の時間を通してエントロピーが発見されるだろう。
◎20世紀のマスターたちを知る、過去との関係の考察。
「何が演劇的か」を定義する。
◎シーラはISTAとは違う。ISTAはもっと濃密。
◎ドラマツルギーは強制できない。隠された手続き。だが具体的。空虚の、経験。
◎「知られている、ではなく我々が知っている、ことの根源」頭脳の嵐、知の嵐。
◎我々の経験と他者の経験。
◎シーラはオーディンと全く違う。
◎なぜシーラか。我々がシーラに来る理由。
◎技芸、実技を通した演技の構造の解明。
◎ドラマツルギー、俳優の知性の発見。
◎セミナーのようなことはしたくない。一緒に発見したい。
◎過去の仕事は重要ではない。
◎身体を理解する。
◎何を知っていたかは関係ない。
◎6月10日にこの企画は十七名でスタートした。南イタリアの人があまりいなくなっ
た寒村をまわる旅をした。ペンティ、ダーティロ、カウローニア、ポリツィ、そしてシー
ラに辿りついた。
●要点
ドラマツルギーについて。
俳優のドラマツルギー、そのメカニズム、しかし、結局何も言ってない。「構成」作業
の重要性について語られている。
バルバの演劇実践、研究の出発点ノルウェイでの出来事をあそこまで延々とこだ
わる、そのこだわり方に強烈な印象を受けた。物事の出発点、それは原点であり、
その人間の人生の起点でもある。人にとって重要なことはどこを出発点にしたか、
である。自分がアジア劇場でやったことをもう一度整理しようという気にもなった。
つまりバルバとの出会いは、私的歴史をふりかえる契機となった点で意味があっ
た、とも言える。
オーディン劇団の活動の始まりを延々と語る姿勢。そこから全く成長していないか
のように。ポーランド留学から戻った後、彼の演劇活動の出発にあたって、演劇学
校を落ちた不器用な俳優志望者とバルバは組むことにした。「それしか」道は彼に
はなかったのだ。彼らは下手だから、バルバのところにしか彼らの道がない。だか
ら良かったのかもしない。一緒に長く何かをやるつもりなら不器用な人間に限る。う
まい人間はすぐ離れる。上手さとは立ち居振る舞いの上手さでもあり、世渡りの上
手さでもある。離れたら、何の意味もない。関係が維持されているから、関係は豊
かになり、ある時、そこから何か新しいことができるのだとも言える。
ジュリア・ヴァーレイのワークショップ・リポート
ワーク作業の流れを最初にジュリアが説明する。
◎ワークショップの指導者はジュリア・ヴァーレイ。バルバといつも一緒にいる彼の
右腕だ。
参加人数は四十名くらい。主にイタリア全土から集まった演劇系の大学生、教師と
地元の劇団の俳優たち。「バルバ・コネクション」の教授たちに声をかけられた
人々が多い。
バルバはワークショップに一切タッチしない。ジュリアが全面的に「指導」。バルバ
は見学に来ない。少し意外だった。で、最終日の発表、デモンストレーションだけを
彼は見る。
テーマ
「ドラマツルギーのテクニック、出会いと衝突」
◎第一日目(6月22日)
ジュリアはコメントを一切せずに始める。まず全員にそれぞれの好きな歌を歌わせ
る。それを聞いて、ジュリアは数名を指名し、歌のフレーズの一部を切り取り、つな
げてリレーさせる。私もジュリアのわーショップに実技参加する。
◎道具ーーー椅子、みかん、アルミホイル(みかんとアルミホイルは昨日、各人に
探して持ってくるよう伝えられていた)
林とシチリアから中年男性のトーレの二人が指名される。明日までにストーリーを
何か書いてくるよう指示される。翌日朝ジュリアに提出する。私はアムステルダム
の路上で、中国人マフィアと間違われ、私服Gメンに拘束された実体験を書くことに
する。
◎第二日目(6月23日)
前日の続き、更に歌を追加。全員で短いフレーズを歌ってつなげる。林とトーレに
ジュリアつき、他のものは3、4人のグループに分かれて、グループ作業。どうやら
私とこのシチリア男を、これから組みたてられるパフォーマンスの「柱」にするよう
だ。
◎第三日目(6月24日)
朝、すぐに外に出て、三ヶ所で通してみる。スタジオに戻って、修正を加える。幾つ
かのグループワークを追加。
◎第四日目(6月25日)
はじめにジュリアから、車座になって話がある。
「他者に対する誤解」が機能する。我々は真に他人のストーリーなど理解しうるか。
一人一人のテキストを使い、その「誤解」から組み立ててみる。特に「つなぎ」に関
して、繰り返す(タイミング面を重点的に)。ー例、バトルとそのあとのピエロのシー
ンのつなぎ、など。
テクストを各人に書かせパーツを作っておき、あとで合間に入れてゆく。つながりを
作る(コンポジション)こととタイミングの練習を繰り返す。シーンの組立作業。上演
テクスト(文字テクスト、に限定されるのではなく、テクストの本来の意味、織り成
す、織物)の作成過程を提示している、と思われる。
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6月22日
ジュリア・ヴァーレイのワークショップ・リポート
8:30ー12:30AM
1 椅子を探す(使う)、同じ形のもの。
2 アルミホイールをそれぞれ椅子に、それぞれのやり方で巻き付ける。
3 歌(各人があらかじめ用意)、一人ずつ全員歌ってみる。
4 ジュリア、任意に指名し、彼(彼女)が歌ったあと、みなが追合唱。ジュリア、短
いフレーズを切り取り、つなげながら組み立ててゆく。彼女が順番(だれの歌をど
の位置に入れるか)を決めてゆく。
5 椅子をみな持って移動し、センターに集合。再び、周辺に戻る。
6 途中で一人、アルミンホイールでコップを作る。
7 林とシチリアから来たジョゼッペ・トーレの二人が指名され、即興で台詞の競り
合いのようなことをさせられる。それぞれの考えた、思いついたストーリーをしゃべ
りだす。初めに相手の言っていることに耳を傾け、それを自分の言語で翻訳する。
日本語とシチリア語を相互に使うわけだから相手の言っていることは互いに解らな
い。作為的に二人が指名されたようだ。多言語、誤解、そういう趣旨。
私はアムステルダムの路上で、ある日突然麻薬売人の中国人と間違われて、麻
薬ジーメンに追いかけられた話しを面白おかしくやってみる(実話である)。
次に競り合い。林ははじめ『シュラムバ物語』(林英樹作)の一節をみかんを使って
やってみる。「遠からんものは音にも聞け、ちかくば寄って目にも見よ!」、そこか
ら強引に十八番『勧進帳』に持って行く。まわりは、圧倒されてか、みな目が点
に。。。。
8 歌いながら、椅子をもってセンターに。次に歌いながらゆっくり(10倍の速度で)
元に戻る。
6月24日
10:30ー12:30am
ワークショップメンバーはスタジオの外に出る。海岸添いの道路を行くと、途中に小
さなトンネルがある。出たところの道路脇で構成されたシーンをやってみる。その
あと、町の中の建物、広場など三箇所で実演する。そこで、昨日フィックスしたスコ
アーを一部修正する。数グループのグループワークシーンをパーツとして使い構成
されたもの。私からスタートする。イタリア人ばかりの中に、一人ガイジンでしかもア
ジア人の私がいる状況。。町の人々がめずらしそうに見物で取り巻く。本当にエネ
ルギーを使う。
●スコアー
1 アルミホイルを付けた椅子を各人(全員)持って、それぞれの位置に。
2 センターに集まる。
3 みなの歌の綴り。
4 歩き、止まり、うた。マリオ椅子のうえに立つ。「フィノオキィ!」の声で再び立ち
上がり、
5 ニーノ、林、ジョゼッペの三人、センターに入る。
6 林とニーノの<翻訳>、<誤解>、<衝突>。
林、何事か日本語でわめき(彼らにはことばの意味がわからないから)ニーノがイ
タリア語に勝手に翻訳して話す。訳しているのか、おちょくっているのか。笑いの
渦、二人の演技は妙に呼吸が合い、コミカル。
7 <妨害>、<中断>。
8 …・
9 椅子ひきずる
10 バトル(四組)
11 クラウン。みなくずれる。
12 椅子が靴になる
13 アメリカから来た女優のレーンが歌う。椅子は島に。
14 レーンの歌、終わる。椅子はスパゲッティに。スパゲッティの音をたててみる。
15 ステファニーがテキストを口ずさむ。
16 レーンと動作。ふりかえる。帽子。
17 オーケストラ。みかんを口に。
18 二人一組のアクション。
19 椅子をセンターに運ぶ。
20 内緒話し。
21 みかんアップ。
22 退場
6月25日
朝8:30ー12:30
ジュリア 「初日は、たぶんグループのなかに居心地の良さを見つけるのが容易で
なかったと思う。センセーショナル・ミーティング(これをオーディンは毎年行なう。こ
れがオーディン)。俳優は「do、do」しなければならない。それには強いエネルギー
が必要である。昨日、外でリハーサルをした。そのときはより強い力が必要だった
と思う。集団的コレオグラフィックな作業が行なわれた。この仕事は多くの人々にと
って、初めての経験だと思うけど・・・、どうだった?」
「初日・・・からだのここ(と丹田を指し)から、ニーノはヒデキを発見し、ヒデキはニ
ーノを発見した。」
「ファンクションはファンクションしていない?」
質問 このタイプの演出では・・・、個人のインディケイション(指示)は?
ジュリア あなたたちが見いださないとならない。
質問 セミナーとワークショップの関係は?
ジュリア 「教える」と「話す」は別のこと(セミナーとワークショップ)。オレンジとアル
ミと椅子を取って、座って待って、マリアについてゆく・・・・、場所は決まってない。
昨日のスコアーで一度なおす。三、四名のグループワークをいくつかのグループか
ら見せてもらう。動作に歌を部分的に追加してみる。「サンライジング」(エミリア・グ
ループ)、「宝冠」(ディアナ・グループ)、「お手玉グループ」(音のみのうたで)、全
員オレンジを使う。
ジュリアは、彼らの作ったコンポジションを少し修正(コレオグラフ)する。
「スパゲティ」シーンを追加する。レーンの動作を修正する。
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セミナー
6月22日15:30PM
ニコラと会話がはずむ「崖の上の砦」への道中で
ニコラ・サバレーセからの発言
「PAULGEITY FOUNDATION INSTITUTE MUSEUM」、一年間、奨学金でロサンゼ
ルスに滞在。そこにはポンペイ美術館、ギリシャ、ローマの建築の復元の試みがさ
れていた。
アナサテ:何も残さなかったネイティブアメリカンの部族。モニュメントバレー。
アメリカの本当の開拓者は誰か?ヨーロッパ人が「ノイズカルチャー」を持ち込ん
だ。ラスベガスに象徴される。インディアンの「静かな文化」のなかに、ヨーロッパ人
は映画産業(ハリウッド)を持ちこむ。
アナサテ:消えた部族の推測、砂漠で水を失う。
ヨーロッパ人の侵略の前の、アメリカの「劇場建築」について。
17:40―
ユージェニオ・バルバとフランコ・ルフィーニ(FRANCO RUFFINI)、フェルナン
ド・タヴィアーニ(FERDINANDO TAVIANI)
「何がドラマツルギーか?」から始めたい。何がそれを証明するのか。(バル
バ)
●ニコラ・サバレーセからの報告。
観客からだけでなく、歴史家の視点から論述する。
「スタンス(距離)は私のマスターである」
ハンディキャップの人たちの芝居。45年病院にいた人物。ボローニャの劇団の人
が彼を連れ出し、(彼は口が聞けない)たくさんのノイズとことばに満ちたパフォー
マンスを行った。彼はノイズのあと現れ、7分動かず立っていた(ギリシアの彫刻を
想起させた)。
「わな」(コヨーテの)カルトーン、プロット。
「ドラマツルギーのイメージ」「ドラマツルギーのスケルトン」
それぞれの断片はそれ自体である。第一のアクションが終わると同時に次のアク
ションは始まっている。
ドラマツルギーの要素はアクションである。
それぞれのアクションには役割がある。
ドラマツルギー:アクションのエレメンタル・ウエイ。相互に変換作用する。エレメン
タリーはシンプル。問題の解決と遠くにあるもの。
ここで書物の話に戻る。
ジャック・コポーに関する話しをする。「演劇と学校」について。コポーはヨーロッパ
中を旅した。1905年、彼はリトミックスクールのグル(指導者)クラスと出会った。
動きとリズムの関係。リズムはそれぞれの身体から出てくる。1920年、コポーは
船のマストの動きに魅了された。ナチュラルな動きに関心。それはショーではな
い。海軍の訓練による、鍛えぬかれたものだ。スウェーデンのジムナスティック、あ
る種の「筋肉」の発見を助ける。セルフエリミネーションー(省略、削除)「ブランチを
飛び越えるジャンプの原則」としてコポーは語る。エクササイズは困難性を取り除く
ための戦略である。人生、生活の困難性を取り除くための。訓練は困難さの継続
である。これがアクションの最初の要素ともなる。コポーは、トレーニングは、何か
を学ぶことではなく、つねに困難性の延長である、と語る。
自覚の訓練=原則。「精神の現前」のため「如何に演技を作るか」から、「動きの
変化」へ発想を変える。なぜなら身体はいつもオートマティック(自動的)になる。訓
練はこれを助けるべきものではない。
「動き」のダイナミズム。
困難さのトレーニングとは、「動きのダイナミズム」のための実践訓練の延長であ
る。装飾的、オートマチックを取り払うためのものとしての。演技行動は「精神の現
前」に従うもの。目的はダイナミズムであってオートマチックではない。
私にとってドラマツルギーは 「How action input together」である。何故なら演技行
為はつねに複雑なものの結合だから。いかに演技行動を変え、いかに演技行為と
は何かを知る。「ワナ」はアイデアの自覚によって捉えられるものだ。
問いは?演劇の仕事の一部?演劇の仕事のレベル?何かについて我々は語る
必要があるのか。いかにこの領域(ドラマツルギー)に入ることができるのか?ー
思い出す行為。観客にとってのもの(彼らは記憶に頼るもの)、機能の構造、ドラマ
ツルギーは明確ではない。私は10分後(芝居の)、何も思い出すことができなかっ
た。
ドラマツルギーは学べるもの、教えられるものなのだろうか?
「学ぶ」ことは「誤解」することである。何かを失うことである。私はドラマツルギーに
ついて教えることができない。構成の仕事の地平線がある。ポエティックな構成だ
ったというワークショップがある。すると、いかにドラマツルギーを構築できるの
か?
バスター・キートンの映画を見て発見したことは、ドラマツルギーはいかにストーリ
ーを語るかではないことである。絵とのつながり、音、光、・・・動き。様々な要素の
コンポジションの結果である。それは時間に価値をどう与えるか、という問いだ。
私は「コメディアデラルテ」に関する研究をした。そこでは俳優は演劇の中心だっ
た。テクスト、衣裳、演技、みな俳優が考える。彼らはどうして他の人間にテクスト
を書く権利を譲り渡すか?ドラマツルギーは通り過ぎることはできないが、分析は
できる。何か「安易」なものを邪魔するものである。それはテクニックではない。ドラ
マツルギーはクラウン(道化)が蝶を追い掛けるようなもの、決して捕らえることが
できない。
「記憶」
参加者より「何がドラマツルギーか?設定(物語)のことか」
理解の許容量の中での不条理性。彼らは互いに理解していない。子を失った若い
女がこどもの写真をジャーナリストに送った話をする。ドラマツルギーは一つの問
題を他に伝える。何が具体的な目的として背後にあるのか、を。
「良いドラマツルギー」、「悪いドラマツルギー」と語りあったり、異なった場面のつな
がりについて、芝居の終わったあとであなたたちは話すだろう。その記憶に、イメ
ージは非常に強く作用する。
ドラマツルギーについて語るのはやさしくない。構造と均衡、モンタージュ、異なった
場面のつながり、組み立ての意味など。
観客の翻訳
もし、我々が構成について語るなら、困難性の中に入り込んでしまう。演劇は集団
作業。一人で出来る仕事ではない。誰もが個人的な迷路に入り込む。混乱した状
況。仕事のプロセスである。個人的な輪郭が否定され、何か新しいものが立ち上
り、個人的なものが消える。目的の最終点の消滅。そのため、再構築は困難であ
る。ラストはつねに異なる。ゆえに、単一の結末は困難だとも言える。
ニコラ・サバレーセ
異なる時間と場所によるドラマツルギーの歴史的所在について。ISTAの仕事は
リ・コンテクストライズ(再・下部テクスト化)である。「OMOSHIROI(面白い)」、世
阿弥は即興についてそう語る。
ギリシア劇
語られる文化ー「書かれた文化」への転換期。ギリシア劇、演劇の始まりは同時に
我々の文化、ストーリーテーラーの出現の前段階。ギリシア劇の話が出来る前(作
家によって書かれる前)にすでに「誰かが」考えたものであった。
「盲人」
予言能力を持つ者。彼らが語る、彼らは観客に可視化されるのを可能にした。何
が彼らのテクニックか。コミュニティーに認められる、とても喜びとされるもの、子供
のためではなく、大人のために。「秘密」はドラマツルギーではなく、ストーリーテー
ラーだ。歌のリズム、声の変化、他の人物の声、がそれを語る。
ギリシア劇に戻ると、
「書かれた文化」が始まった時から「即興」は不可能になった。作家がテクスト(文
字)を変えてはいけないとする。演技には、はじめ一つの固定化したアイデンティテ
ィー(役)はなかった。ナレーターはいくつもの声(面)を持っていた。偉大な俳優
は、はじめは一人。ギリシア劇から始まった。ペルソナ(人格、役)を使い分ける、と
は声を使い分けることでもあった。
バルバ
役割を解釈し、何が正確な役割かをつきとめること。誰かによって書かれたテクス
ト。「物語の一貫性」:我々の持っている知識がどうであれ、私ははじめ「具体的な
思考」で、私の前にいる俳優とともに私は何をするべきか、から始める。俳優は私
に「具体的な思考」を期待する。
声の感受性
「声は身体」、エネルギーの身体化である。全ての連携、協働レベルでそうである。
具体化する際に、音のレベルと語られるレベル。ふたつの別なレベル。
ドラマツルギーの歴史:「思考の具体化の作業」「いかに思考を具体化する
か」
プロセス、特に演出と俳優の創造のプロセスに注目する。ここで観客の問題は全く
別のレベルのこと。テクストは二つのレベルで構築。演劇学校は「教える場」。シア
ターラボラトリーは「教育を企てる場」。第二に「動き」をどう言葉とつなげるか、とい
う問題がある。シンクロナイジングさせないで。テクストと「動き」を一緒にしない。私
の言葉のリズムは私の身体に属している。
「不合理な人格の一貫性」という論理性。しかし、私にとって劇は論理ではない。意
味を獲得することは困難なことだ。
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ドラマツルギーについてなぜ我々は語る必要があるのか
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セミナー
6月22日15:30PM
ニコラと会話がはずむ「崖の上の砦」への道中で
ニコラ・サバレーセからの発言
「PAULGEITY FOUNDATION INSTITUTE MUSEUM」、一年間、奨学金でロサンゼ
ルスに滞在。そこにはポンペイ美術館、ギリシャ、ローマの建築の復元の試みがさ
れていた。
アナサテ:何も残さなかったネイティブアメリカンの部族。モニュメントバレー。
アメリカの本当の開拓者は誰か?ヨーロッパ人が「ノイズカルチャー」を持ち込ん
だ。ラスベガスに象徴される。インディアンの「静かな文化」のなかに、ヨーロッパ人
は映画産業(ハリウッド)を持ちこむ。
アナサテ:消えた部族の推測、砂漠で水を失う。
ヨーロッパ人の侵略の前の、アメリカの「劇場建築」について。
17:40―
ユージェニオ・バルバとフランコ・ルフィーニ(FRANCO RUFFINI)、フェルナン
ド・タヴィアーニ(FERDINANDO TAVIANI)
「何がドラマツルギーか?」から始めたい。何がそれを証明するのか。(バル
バ)
●ニコラ・サバレーセからの報告。
観客からだけでなく、歴史家の視点から論述する。
「スタンス(距離)は私のマスターである」
ハンディキャップの人たちの芝居。45年病院にいた人物。ボローニャの劇団の人
が彼を連れ出し、(彼は口が聞けない)たくさんのノイズとことばに満ちたパフォー
マンスを行った。彼はノイズのあと現れ、7分動かず立っていた(ギリシアの彫刻を
想起させた)。
「わな」(コヨーテの)カルトーン、プロット。
「ドラマツルギーのイメージ」「ドラマツルギーのスケルトン」
それぞれの断片はそれ自体である。第一のアクションが終わると同時に次のアク
ションは始まっている。
ドラマツルギーの要素はアクションである。
それぞれのアクションには役割がある。
ドラマツルギー:アクションのエレメンタル・ウエイ。相互に変換作用する。エレメン
タリーはシンプル。問題の解決と遠くにあるもの。
ここで書物の話に戻る。
ジャック・コポーに関する話しをする。「演劇と学校」について。コポーはヨーロッパ
中を旅した。1905年、彼はリトミックスクールのグル(指導者)クラスと出会った。
動きとリズムの関係。リズムはそれぞれの身体から出てくる。1920年、コポーは
船のマストの動きに魅了された。ナチュラルな動きに関心。それはショーではな
い。海軍の訓練による、鍛えぬかれたものだ。スウェーデンのジムナスティック、あ
る種の「筋肉」の発見を助ける。セルフエリミネーションー(省略、削除)「ブランチを
飛び越えるジャンプの原則」としてコポーは語る。エクササイズは困難性を取り除く
ための戦略である。人生、生活の困難性を取り除くための。訓練は困難さの継続
である。これがアクションの最初の要素ともなる。コポーは、トレーニングは、何か
を学ぶことではなく、つねに困難性の延長である、と語る。
自覚の訓練=原則。「精神の現前」のため「如何に演技を作るか」から、「動きの
変化」へ発想を変える。なぜなら身体はいつもオートマティック(自動的)になる。訓
練はこれを助けるべきものではない。
「動き」のダイナミズム。
困難さのトレーニングとは、「動きのダイナミズム」のための実践訓練の延長であ
る。装飾的、オートマチックを取り払うためのものとしての。演技行動は「精神の現
前」に従うもの。目的はダイナミズムであってオートマチックではない。
私にとってドラマツルギーは 「How action input together」である。何故なら演技行
為はつねに複雑なものの結合だから。いかに演技行動を変え、いかに演技行為と
は何かを知る。「ワナ」はアイデアの自覚によって捉えられるものだ。
問いは?演劇の仕事の一部?演劇の仕事のレベル?何かについて我々は語る
必要があるのか。いかにこの領域(ドラマツルギー)に入ることができるのか?ー
思い出す行為。観客にとってのもの(彼らは記憶に頼るもの)、機能の構造、ドラマ
ツルギーは明確ではない。私は10分後(芝居の)、何も思い出すことができなかっ
た。
ドラマツルギーは学べるもの、教えられるものなのだろうか?
「学ぶ」ことは「誤解」することである。何かを失うことである。私はドラマツルギーに
ついて教えることができない。構成の仕事の地平線がある。ポエティックな構成だ
ったというワークショップがある。すると、いかにドラマツルギーを構築できるの
か?
バスター・キートンの映画を見て発見したことは、ドラマツルギーはいかにストーリ
ーを語るかではないことである。絵とのつながり、音、光、・・・動き。様々な要素の
コンポジションの結果である。それは時間に価値をどう与えるか、という問いだ。
私は「コメディアデラルテ」に関する研究をした。そこでは俳優は演劇の中心だっ
た。テクスト、衣裳、演技、みな俳優が考える。彼らはどうして他の人間にテクスト
を書く権利を譲り渡すか?ドラマツルギーは通り過ぎることはできないが、分析は
できる。何か「安易」なものを邪魔するものである。それはテクニックではない。ドラ
マツルギーはクラウン(道化)が蝶を追い掛けるようなもの、決して捕らえることが
できない。
「記憶」
参加者より「何がドラマツルギーか?設定(物語)のことか」
理解の許容量の中での不条理性。彼らは互いに理解していない。子を失った若い
女がこどもの写真をジャーナリストに送った話をする。ドラマツルギーは一つの問
題を他に伝える。何が具体的な目的として背後にあるのか、を。
「良いドラマツルギー」、「悪いドラマツルギー」と語りあったり、異なった場面のつな
がりについて、芝居の終わったあとであなたたちは話すだろう。その記憶に、イメ
ージは非常に強く作用する。
ドラマツルギーについて語るのはやさしくない。構造と均衡、モンタージュ、異なった
場面のつながり、組み立ての意味など。
観客の翻訳
もし、我々が構成について語るなら、困難性の中に入り込んでしまう。演劇は集団
作業。一人で出来る仕事ではない。誰もが個人的な迷路に入り込む。混乱した状
況。仕事のプロセスである。個人的な輪郭が否定され、何か新しいものが立ち上
り、個人的なものが消える。目的の最終点の消滅。そのため、再構築は困難であ
る。ラストはつねに異なる。ゆえに、単一の結末は困難だとも言える。
ニコラ・サバレーセ
異なる時間と場所によるドラマツルギーの歴史的所在について。ISTAの仕事は
リ・コンテクストライズ(再・下部テクスト化)である。「OMOSHIROI(面白い)」、世
阿弥は即興についてそう語る。
ギリシア劇
語られる文化ー「書かれた文化」への転換期。ギリシア劇、演劇の始まりは同時に
我々の文化、ストーリーテーラーの出現の前段階。ギリシア劇の話が出来る前(作
家によって書かれる前)にすでに「誰かが」考えたものであった。
「盲人」
予言能力を持つ者。彼らが語る、彼らは観客に可視化されるのを可能にした。何
が彼らのテクニックか。コミュニティーに認められる、とても喜びとされるもの、子供
のためではなく、大人のために。「秘密」はドラマツルギーではなく、ストーリーテー
ラーだ。歌のリズム、声の変化、他の人物の声、がそれを語る。
ギリシア劇に戻ると、
「書かれた文化」が始まった時から「即興」は不可能になった。作家がテクスト(文
字)を変えてはいけないとする。演技には、はじめ一つの固定化したアイデンティテ
ィー(役)はなかった。ナレーターはいくつもの声(面)を持っていた。偉大な俳優
は、はじめは一人。ギリシア劇から始まった。ペルソナ(人格、役)を使い分ける、と
は声を使い分けることでもあった。
バルバ
役割を解釈し、何が正確な役割かをつきとめること。誰かによって書かれたテクス
ト。「物語の一貫性」:我々の持っている知識がどうであれ、私ははじめ「具体的な
思考」で、私の前にいる俳優とともに私は何をするべきか、から始める。俳優は私
に「具体的な思考」を期待する。
声の感受性
「声は身体」、エネルギーの身体化である。全ての連携、協働レベルでそうである。
具体化する際に、音のレベルと語られるレベル。ふたつの別なレベル。
ドラマツルギーの歴史:「思考の具体化の作業」「いかに思考を具体化する
か」
プロセス、特に演出と俳優の創造のプロセスに注目する。ここで観客の問題は全く
別のレベルのこと。テクストは二つのレベルで構築。演劇学校は「教える場」。シア
ターラボラトリーは「教育を企てる場」。第二に「動き」をどう言葉とつなげるか、とい
う問題がある。シンクロナイジングさせないで。テクストと「動き」を一緒にしない。私
の言葉のリズムは私の身体に属している。
「不合理な人格の一貫性」という論理性。しかし、私にとって劇は論理ではない。意
味を獲得することは困難なことだ。
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6月24日(第二日目)
●ドラマツルギー、過去の戦略
ニコラ・サバレーセ
ギリシア劇の初期から20世紀まで、ドラマツルギーの歴史。
19世紀の産業革命はとくに人間社会へ大きな影響を与えた。
演劇と社会は密接な関係ゆえ、産業革命は分離(役割、仕事)、という大きな変換
を与えた。それまでの統合性、全体性から。とくにプロデュースの方法。演劇は集
団作業、産業革命は新しいリアリティ、社会を生み出した。
コスチューム、普段着だと動作はポケットに手を入れるとか、程度のものだが、エ
キゾチックだと人々は驚く。着物…、
スタニスラフスキー、「ミカド」。19世紀、ロシアの俳優が日本の着物を着たとき、
背骨を曲げた姿勢の写真が残っているが、それは彼らが日本人のように小さくな
ろうとして、のことだった。
フェノロサ。能に魅せられた英国人。日本の文化に魅せられたヨーロッパ知識人。
イエーツ、詩人、その後を継ぐ。第一次大戦後、ロンドンは難民があふれていた。
そんなロンドンにミッチェル・イトーはヨーロッパ文化を学ぶために来る。ミッチェ
ル・イトーとイエーツは出会う。イトーは芝居(能、歌舞伎)を日本でやったことはな
かったが、昔の日本人はだいたい武道をやっていたので、彼もある程度の武術の
心得があったと思われる。イエーツは自分の作品の上演をするため、イトーの動き
を見て、新しい、新作能の演技の動きを考えた。彼の家に上流社会の人々を招い
て試演した。イトーが演ずる。彼の動きは新しいフォルムを表現した。イエーツはこ
の仕事で成功、それも含めてノーベル賞を得ている。
国家のボーダーをこえる動きが始まる19世紀末。とくに演劇では顕著。ヨーロッパ
がアジアと出会う。インターナショナルレベル、テクストひとつが他の国に旅すると、
どうなるか。たとえばイプセン。『人形の家』。日本に入ったとき、その頃の日本で
は女性は男性の一歩後に下がっていなければならないかったのだが、フェミニス
ティックな地点から、男性の後に下がっているのを拒む新しい考えの女性を「ノラ」
と呼ぶ社会現象が生まれた。日本の演劇を輸入したイーエツの時代のヨーロッ
パ。しかし、日本では逆に同じ頃、ヨーロッパの演劇の輸入を行ないはじめた。
新しい社会での演劇、観客の前に立ちはだかる壁を、ニコラは壊したい、と言う。
ブレヒト
いくつもの場所、国の伝統文化を取り入れる。
35年、ナチスのため、デンマークからロシア(アメリカに行く前)に渡る。ブレヒトは
ロシアで京劇俳優メイ・ランファンに会う。メイが舞台衣裳に着替え、椅子で煙草を
蒸かしている姿を見て・・・・彼は「デスタンス」(距離化、対象化)を発見。
これが、ヨーロッパの新しいドラマツルギーの誕生につながる。
フェルデナンド・タヴィアーニ
ゴルドーニの例
『ファウスト』の例
『ファウスト』は上演のため書かれたものではない。彼の時代に上演されなかった。
テキストとは何か?
「テキスト」というイデオム、言語機能の意味変更の必要がある。
上演する団体を持つ事無く、劇作家が芝居の作品を書いていた時代(18世紀)。
分離作業のはじまり。システム・オブ・プロダクションのマーケットが形成された。作
家に劇団は必要がなくなった。
+++ベケットは本来は小説家だった。彼の仕事のリラックスのため芝居を書い
ていみた。
何でもが芝居の台本になる。有名な英国俳優が電話帳を読んでそれが芝居にな
る場合もある。
経済条件がかならず背景にかかわる。芝居の戯曲の場合、このシステム、プロダ
クトの中で生み出される。
ミレーラ・スキーノ
「文学的ドラマツルギー」の問題
ドラマツルギーの定義=1、文学的に書かれた作品
2、劇団俳優のために書かれた作品(19世紀)
いかに俳優が働けるか。
たとえば、外国の俳優にテキストを書くと、困難性が立ちふさがる。
ここで、ギリシアからの演出家の女性から質問。
イタリアの作家は演出家のドラマツルギーを受け入れているのか?
20年前との相違は?
ー20年前、だれも書かれたテキストのことを気に掛けなかった。70年代はテキス
トに対する異議を唱えた時代。
イタリアでは「死ぬほど退屈な80年代」、と人々は言った。
そのあと、「テキストの上演」の時代に再び戻ったが、ひどいものとなった。何も再
構築できていない。テキスト不在の80年代・・・からテキストに戻ったとき、不毛状
態に陥る。
「書かれたテキスト」・・・・・距離
書かれたテキストのドラマツルギーにかわる演出家のドラマツルギー。
20年前、ボローニャ大学の学生だった女性から。
20年前、学生は「問題」に興味があったが、いまは「解決」に関心がある。
ワフタンゴフ、35才で死ぬ。スタニスラフスキーの後継者、彼を越えたいという野
心。急いだ。癌のため死ぬ。
1917年まで、スタニスラフスキーはゆっくりしていた。リサーチしたいときにする余
裕。ドラマツルギー、演出がフォームを作る。俳優がジャスティファイする。ドラマツ
ルギーはキャラクターを通す事無く想定された。
しかし、ワフタンゴフには時間がなかった。彼のマスター(スタニスラフスキー)の終
点からはじめた。それが彼の戦略。
フランコ・ルフィーニ
「俳優のためのドラマツルギー」
「破壊」、がすべての探求の出発点。コポー、アルトー、らマスターたち。
文化遺産、彼らが持っていたものの破壊。
我らはいずれのパフォーマンスも新しいもの、自分が始めた、過去にないもの、を
目指している。
「役割」と「パルテ」、いまはパルテは失われている。なぜならパルテはもはやモダ
ンプロダクションに当てはまらない。「役割」はある種のキャラクター。大体におい
て。大体、というふうにしか定義できない。キャラクターのカテゴリー。老人とか、若
者、傲慢、兵士・・・・、これはカテゴリー。
俳優は「役割」を舞台上で演ずる。
70パーセントは、彼は役を、だが、たぶん30パーセントは何か新しいものを演ず
る(表現する)
19世紀、
歴史を知らずに、いかにプロダクションが作られたか、を知らなければならない。
職業劇団、職業演劇はヨーロッパでは、産業に属していた。だから経済に属する。
短い期間で作品を作らなければならない。観客のチケットで収入を得ていた。彼ら
はその収入で生活している。
リアリティーとはこの紙(くしゃくしゃにまるめた紙を示し)、しかし、それは歴史が複
雑にからまる。紙をのばし、だから説明(歴史)する必要がある。
バゲッジ(荷物)とプレゼンス
メイエルホリドでさえ、過去を破壊したにもかかわらず、古い劇の役割、論法をたく
さん使っていた(バッゲージ)
主観的歴史は真実。客観的歴史は存在しない。
オディン劇団は何を壊したのか?
たくさんこわした。
俳優の敵のひとつ、…・(不明)
フランコ・ルフィーニ 何もこわしていない。文化遺産を使い、新しいものを生み出
した。
19:30ー バルバ オーディン劇団は何を破壊したか。演技行為の全プログラ
ム。
エイゼンシュタイン、この言葉をパンチで打った。伝統的考えを破壊した。何か新し
いものを創造、短い期間、エクササイズの開始、ルーチンだけど。
あるリブレーションの方法:新しいリレーションシップ。お金のない、若いグループで
都市の中にオアシス?ーーーラボラトリーを作る。砂漠に。オーディン劇団だから、
自由、新しいものを作る場所として作った。典型的な劣等感を私(バルバ)は持っ
ていた。パリにコロンビア人が来たようなもの。イタリアンがノルウェイに移住した。
そして学校へ行かなくなった人と始めた。オルタナティブシアターにその頃奨学金
は払われなかった。我々はだからたくさんのリハーサルの時間があった。それは
贅沢。金、のシステムの中にいないから。私のクラス(仕事でやっていた学校の)は
中流階級の子たちが来た。彼らの家にいって劇団員は夕食を取った(貧しかった
から)。
メイエルホリド、スタニスラフスキーのまわりには、知識のある人たちが集まってき
た。
オーディン劇団は初期の段階、生み直されなければならなかった。イタリアのコロ
ンビアグループの例。彼ら外国人、その国の文化の一つになる気はない。
演劇学校が拒絶した4人の俳優たち(オーディン劇団の旗揚げメンバー)
「迷信」、「哲学的辞書」を作りたかった。
初期オーディン劇団。ワークショップを行い、それで金を得て・・・、何とか食いつな
いだ。
私は何も持ってなかった。シアターマシーン、プロデュースシステムの興行界に対
抗して他のリレーションシップで再構築する。
「威厳」の感受性について
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バルバはいつも裸足にサンダル。
そして私はフランスでも履いて歩く雪駄。
やはりゲージツ家は、ワンポイント変人が入っている?
6月25日 15:30ー18:00
バルバ
ニーノの質問、「20年前、生徒はどうリアクションしたか?」80年代の数年前、テ
キストを使わずに上演することに価値のある時期があったが、とマリアにふる。
ニーノ
20年前 自分は大学にいた。多くの真実、エクスクラメーションマークを以て教授
たちは教室にきた。もし、アカデミックな世界が多くの(不明)・・をだすなら我々は
妙な場所に置かれる。
マリア
20年前、デモンストレーションで多くのの上演を行った。テキスト自身の問題。30
年前、フランコら「パフォーマンスはアフター・・」彼らは別の歴史を作った。70年代
のパフォーマンス、テキスト不在は別の要素を生む。
場所の歴史はずいぶんかわった。観客と別の種類の関係(つながり)を探しはじめ
た。テキストなしだとなにもないところから始めなければならない。これはとても困
難。
昨日、「バゲージとプレザンス」を語ったとき、フィジカル/クレジットロールのトレー
ニングを俳優はしないとならない。これは伝統的な方法。新しい演劇の俳優はこの
方法に満足しない。
70年代、テキスト創出に対する(プロダクションも含めて)別の方法を考える。
ミレーラ・スキーノ(質問に対して)
ドラマツルギー、私自身混乱に直面している。多くの答えがありすぎる現実。答えを
用意できない。
フェルディナンド・タヴィアーニ
「錯乱」したい。普段の状況にたいして違う状況を期待してきた。・・・私は破壊よ
り、なんとかドラマツルギーを構築しようとしている。ドラマツルギーに関して知らな
いことをたくさん聞いた。
フランコ・ルフィーニ
「日常と祭典」、「安全性と危険性」・・大きな責任を感じてしまう。
バルバ
この30年間に起きたことを、プロデューサー、研究者はとらえかえす。(この30年
の変化、進展を前にした新しいドラマツルギーの新概念・・・・をまだ明らかにしては
いない現状がある)を汲み上げる責任(返答)の必要がある。あなたの本であなた
の仕事で。(フランコに対して言っている)
この30年、(1970年代ー2000年)演劇に起きた新たな演劇の事態、現象、革
新に対してドラマツルギーの観点から再構築する必要がある。(演劇研究者は)
ニコラ・サバレーセ
「書く」人々にたいして、ジュリアン・ペック、1975年。ベネチアビエンナーレ
『Seven Meditation Political』:モーニングドレスなテキスト。
ある劇でただ「オルディナンデー」という言葉を口にするだけの試み。有名な小説
の一説を口ずさむだけだった。だが、何かがそこに成立していた。
すでに観客が話を知っている、その歴史とか。
参加者から
何故、ここに来たのか?なにかを教えてもらいに来た。何もまだ強い、明確な事を
聞いてない。
バルバ
1969年から、フランコ、ニコラ、フェルディナンド、そしてマリアと友人・・・「ロール」
と「パート」どうリノベイトするか?彼らは私がすでに「知ってること」を捨て、リフレク
トする。それはISTAがずうっとやってきたこと。シーラは我々が会うシチュエーショ
ン、「ニューアスペクト・オブ・ミーティング」が関心で、すでに知っていること、の確
認の場所。常にドラマツルギーを毎日論議してきた。
毎朝ワークショップで「困難」に会ってきた。彼らは「真実」「答え」を与えてこなかっ
た。「疑い」「疑問」をあなたがかわりに持ち、失望したとしても彼ら(研究者、学者)
は何か新しいものを破壊した。ドラマツルギー、それは俳優にとっての財産だ。演
劇は実践的知。「分離」「嵐」にかかわらず、俳優の恒常的(不可欠)要素。我々は
どう言葉に引き戻すことが出来るのか。新しい言葉は「見ることの新たな方法」を
助ける。
俳優のドラマツルギー、演出のドラマツルギー、戯曲のドラマツルギー、では
私は何を知っているのか。
どうしてそんなに長く一緒にいることが出来るのか?
どう我々は互いに我慢できるのか。(仮面をつけて付き合っているのか、と言われ
る)いやな面も知っている。そして互いに尊敬、驚きを持っている。
俳優によるコンポジション(組み立て、構成)
マテリアルシアター、たとえば音・・・人間は多くの感受の方法を持っていた。
1 俳優が演技を通じて組み立てる。
身体演技を通じて、ダイナミズムを通じて
2 声は瞬時にその表情を表す。ボーカルアスペクト。音の明晰性。このフォルム
は情報を含む。クオリティ・オブ・インフォメイション(バイオグラフィー)
シングルスペクテイター、観客の感受の問題。
アルゼンチンの母の話。デンマークではお伽話。アルゼンチンでは1970年までは
違う。場所によって同じ話が違う意味になる。
一つの情報だけでなく、多くの情報が含まれる。聴覚視覚レベルの連携、身体的
アトラクション、これらのつながり・・・組みたて。
もし、鎖について話すなら・・・・・?????
メイエルホリド、ダイメンション、ヴォーカル・ヴァーバル・コンセントレイション。
サウンドコンポジション・・・静寂を作る。
3つのダイナミカルコンポジション、私はそれをドラマツルギーと言う。「オルガナイ
ズ・サクセション・オブ・サウンド・コンポジション」
物語性
1 何が「迷信」か?「状態の変化のドラマツルギー」を自覚する。
2 オーディン劇団を始めたとき経験はなかったが、モデルを持っていた。ポール
(演出家)クロジェビンスキー、つねにテキストとともに仕事をした。コピーではなく
「真似」をした。(私が感動したもの)もちろん同じではない。俳優が違うから当然。
1961年、ベルリーナアンサンブル(ブレヒトの死後ー)
古典テキストは先生が使ったので、現代テキストを使った。ナチスが科学的にジプ
シー、ユダヤ人を殺す。医師がユダヤ人の子供を殺す芝居。15人のキャラ、しか
し、オーディン劇団は4人。
我々が第二次世界大戦、そこにいたらどうしたか?特に他人にではなく(この質問
は)私は私にしてみた。
毎年グロトフスキーはやって来た(オーディン劇団の稽古場に)、毎年彼は新しいエ
クササイズを示した。グロトフスキーが去ったあと、いつもこれがトレーニング、と私
は言う。
思考の方法
いかにエクササイズを構築するか?これがドラマツルギー探求の始まり。
オーディン劇団の二番目の作品はデンマークの詩人の詩だった。17、8歳の野蛮
な少年カスパー・ハウザー。コミュニティーが彼を教育しようとする。この作品には
たくさんの登場人物。だがオーディン劇団は俳優が4人しかいなかったから、一人
何役もこなす必要があった。
訓練の道具としての言語。キャラクターの仕事とは、我々にとってたぶん奇妙に聞
こえるかもしれないが、「秘儀」である。
自習のための作法(ディシプリナリー・セルフ・ラーニング)。
カブリアーレで。通りから見えるところでトレーニング。
彼らは特にエネルギーを創出した。トレーニングは俳優の「オートノミー」の開発、と
言える。訓練はキャラクターのEQUVALENT ではない。「PRESENT DESIRE TO
SURPRISE SEDUCE STARANGENESS」
6月25日
●プレゼンテーション(上演)
ジュリアとともに作った作品の公開。教授連、地元の人も見物で、崖の上の城砦の
テラス(野外)を使っての発表。イアリア人40名に交じり、林が軸となったパフォー
マンスが発表された。
終了後、バルバの話し。話しの中でさっそく「林のエネルギー」に関してたびたび引
用される。最後、みななぜだか出演者たち、私に駆け寄り、「抱擁」ぜめに会う。や
はり十八番、団十郎には少なくとも勝っているぞ(!?)の「勧進帳」のせいか?自
分が出演していたため、詳細に語れないのが残念だが、バルバの片腕のジュリア
はパフォーマーとして私を非常に気に入ったようだ。 私の目的は、ただバルバに
近づくことだが、まあ、「芸は身を助ける」、「勧進帳」といい、ファリファリといい、こ
れがあるゆえ、海外では何度も助けられた。演劇人、実演者のならいか、千の言
葉より、一つの芸。言葉を重んじる外国で、だからこそ、言葉にうんざりしている彼
らには、「物的証拠」が一番効力を発揮する。
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