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自分の表現を深く突き詰めていくと、自分では計り知れない自分の血の深さ
を知る。所詮、人は自分の血から離れることはできない。自分でも未だ知るこ
とのできない自分の存在は、確実に血の受け継がれた存在であって、自分の
無意識の中にその血が蠢くことがある。自分が想像するよりはるかに壁をぶ
ち抜く力であるその血の濃さを自分の中に見てみたい。それがこの作品を作
ろうと思った理由だ。一人一人の血が舞台で踊るといい。それこそが一人一
人の差異なのだ。
子どものころから私はちょっと子どもっぽくない子だった。10歳のときに、茶道
を始めた。きっかけは大したことはない。夏休みに預けられていた親戚の叔
母が茶道をやっていて、一緒について行っただけのことだ。しかし、その茶道
の先生の家に入った途端、体が震えた。その香り、その風景、その静寂全て
が捜し求めていたような気がした。それからお茶の世界に入り込んだ。もうひ
とつどうしても耳から離れない音があった。それがお経だった。別に熱心な仏
教徒でもない。ただ、お経の声・・その不思議なリズムが子どものころから心
地よかった。自分が生まれるずっと前から聴き続けていたような気がした。
今回の作品の音で、「天台声明」を使ったのは自分のそんな原風景から来て
いるように思う。この声明の声の中で自分は何を表現するのか・・・・それは自
分の存在しかない・・・自分の生を表現したい。そのときふっと種田山頭火の
ことが頭に浮かんだ。母親の自殺、様々な不遇とトラウマの中、一鉢一笠の
托鉢僧となって漂泊の旅を続け、生と必死で向かい合う山頭火の句を口から
吐き出したいと思った。
声明が聴こえた瞬間、全ては空白となった。しかし、実に落ち着いていた。自
分の呼吸が見えてくるようだ。脳裏に幼いころの自分が蘇る。体は自然に動
く。山頭火の句が口からはじけ出る。声明が変わり、五悔(ごげ)に入ると、自
然に上から見つめる目を感じた。上からの視線はこれまでの舞台と違い、自
分の丸ごと見透かされるような気がする。途中で持っていた鳴子が飛んでい
ってしまうほど何かに突き動かされていた。最後の山頭火の句、
「産んだまま 死んでいるかよ かまきりよ」
を吐き終わった瞬間、初めて少しだけ自分の生を表現できたような気がした。
『ツアラトストラはかく語りき』(第一回創作ワーク)の時もそうであったが、改め
て自分自身の表現を創っていきたいと思えた。これからも自分の身体と真摯
に向き合いながら自分の存在・血と会話していこうと思う。
創作チーム発表の総括
まずはじめに、チームの代表とさせていただいたにもかかわらず練習に参加
する時間が最も少なかったことをお詫びしたい。しかし、それぞれが自分のコ
ンセプトをしっかり持って、ある程度創ってきていたので何とか発表することが
できた。改めてメンバーに感謝する。
さて、我がグループの創作発表についてだが、それぞれが創ってきた自分の
独自な世界をまず大切にし、それをどう繋げ、構成していくかを考えた。お互
いがそれぞれの世界に変に入り込まずに、その世界の端に引っかかりながら
自分の感じ方でその世界とコンタクトしていこうと・・・。はじめはかなり全体とし
ての動きや約束事を決めていたが、やはりあまり決まりを作ってリンクしたくな
かったので、実際に動いてみて感じたものを大切に修正していった。
他のグループの発表を見て、自分達の発表はやはり一人一人の世界がかな
り独立していたように思う。しかし、それでよかった。他の3人によってその人
の世界が際立てばいいと思っていたから。個人的に他の3人の世界はどれも
好きだったし、自然に入っていけた。ただ・・・最大の問題点は、最後の場面。
室坂さんとのセッションだ。これに対する詰めが最初から甘かった。ただなん
となく4人が動く。意味がなく、ただ、音に引っ張られて動く。音に甘えている。
セッションにも何にもならずに、ただの踊りに過ぎない。これは悔しかった。申
し訳なかった。せっかくのチャンスを失った感じがした。まだまだ全神経が研
ぎ澄まされていないということだろう。
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