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□2004年 藤野合宿:感想□
■通称<電波の無い国>こと、藤野から帰還して数日が経ち、改めて、その
「環境の良さ」を思い返す。
「必要以外の音がしない」という事は、こんなにも自分も助けてくれるものだっ
たのか、と思う。
■普段(日常)の生活で無数の音に囲まれている我々。
それらは、「日常生活」をする上で必要となる音ばかりだから、特に気の留め
ることはないし、邪魔だとも思わない。
だが、一度、何かを成そう(自分の場合は、それが演劇に当たる)とすると、
途端に、「音」は「雑音」へと変化し、まるで<指向性を持った攻撃>の如く、
降り注いでくる。
それをシャットアウトできる環境があるという事は、実に有難かった。
■それは何も、藤野に限らず、普段のWSにもいえる事で、部屋の扉を開け、
閉めた瞬間からそこには<場>が出来、外の不必要な音を遮断。純粋に、
<突き抜けていく>環境が誕生する。週に一度。一日の中の限られた時間で
はあるが、そういう時間がある事を幸せに感じる。
…いや、限られた時間だからこそ、幸せに感じるのかもしれない(笑)
■肝心の合宿はというと、今回は9月後半に公演を打った事もあって、試演
会への参加はなく、スタッフワークが中心であったが、その分、より第三者とし
て観られたのではないかと思うし、更に、本番中はビデオ撮影をしていた事も
あって、「液晶越し」という貴重な(?)ポジションで、観る事が出来た。
「ビデオで見た自分の演技」が酷く滑稽に見える様に、液晶というのはどこま
でも正直だ。そこには感動や情熱、生での迫力は一切映らず、ただ目の前で
起きていることだけが、正確に、情報としてのみ記録される。
その「限界まで冷めた目」で観ていた訳だが、それでも惹きつけられる試演が
幾つかあった。
それらに共通していたものが…<音>だ。
水の音…。機械的に響くタイプの音…。走り回る音…。衣装から出る音…。体
のきしむ音…。本当は鳴ってはいない「ごぅ」という風の音…。<声>という音
…。
音は、鳴ることで注意を引くし、逆に、鳴らないことによって注意を引く。「視
覚」に比べて、「聴覚」に訴える方が、より相手にイメージさせやすいし、残る
のかもしれない。 …<音>を巧みに使っていた試演は、今でも鮮明に思い
出すことが出来る。
■BGMやSEなどの「音響」ではなく、もっと原始的な<音>。2次的な道具を
必要としない、「身体」から発せられる<音>。その中でも最も、ダイレクトに
相手に伝わる表現を可能とする<声>という<音>。
何気なく使ってきたこの機能に、<考え>を持ってぶつかってみようと思う。
自分の持つ機能ながら、この<声>という奴は、考えもなしにぶつかって勝て
る程、生やさしい相手ではないからだ。
■「自分の表現したい世界」に溺れることのない様にも、したい。
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